ひぐらし)” の例文
つづいて二百二十日の厄日やくびもまたそれとはほとんど気もつかぬばかり、いつに変らぬ残暑の西日にひぐらしの声のみあわただしく夜になった。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
そして午前の四時頃、他のものではひぐらしが一番早く聲を立つるのであるが、それをきつかけに佛法僧はぴつたりと默つてしまふ樣である。
鳳来寺紀行 (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
たっぷり昼寝した八十何名かの武者ばらは、ひぐらしの声がいっぱいに聞える山の大日堂のまわりに、再び、今朝のように影を集めていた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
代りにひぐらしのカナカナと短く迫つた声が聞え始めると、それを相図のやう、ひつそりした家々から、それぞれの声が殆ど同時に起つて来る。
秋の第一日 (新字旧仮名) / 窪田空穂(著)
ひぐらしの声に驚いて目をさました大将は、この時刻に山荘の庭を霧がどんなに深くふさいでいることであろう、情けないことである
源氏物語:39 夕霧一 (新字新仮名) / 紫式部(著)
「や、山の上でひぐらしが鳴かあ、ちょッ、あいつが二三度鳴くと、直ぐに起きやあがる。花屋の女は早起だ、半日ここに居てたまるもんかい。」
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
Sサナトリウムを囲み、森を奏でるようなひぐらしを抜けて、彼は闇に白く浮いた路を歩いていた。その路は、隣りのG——町に続いていた。
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
日がかげってから家を出た赤瀬春吉は、窓の外に秋を告げるようなひぐらしの声を聞きながら、首だけ出して、湯の中にひたっていた。
糞尿譚 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
今二点を拍ちし時計のひぐらしなど鳴きたらんように凛々りんりんと響きしあとは、しばし物音絶えて、秒を刻み行く時計のかえって静けさを加うるのみ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
朝夕はひぐらしの声で涼しいが、昼間は油蝉あぶらぜみの音のりつく様に暑い。涼しい草屋くさやでも、九十度に上る日がある。家の内では大抵誰も裸体はだかである。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
都を立出でて、既に六十日、今や盛夏を告げ顔なる、蝉や、ひぐらしの声などが聞える。それにしてもこの艶々つやつやしい池の畔の草木の緑葉の眺めかな。
森の妖姫 (新字新仮名) / 小川未明(著)
本郷の黄昏たそがれ。神田の祭礼。柏木の初雪。八丁堀の花火。芝の満月。天沼のひぐらし。銀座の稲妻。板橋脳病院のコスモス。荻窪の朝霧。武蔵野の夕陽。
ひぐらしいたとともに、れてしまつた、と自分じぶんがふっとさうかんがへたのは、やまのかげが、いへほうへさしてて、うすぐらくなつたためだつたのだ。
歌の話 (旧字旧仮名) / 折口信夫(著)
富江は何か急に考へる事でも出来た様な顔をして、黙つてその後にいた。縁側伝ひ、かげつた庭の植込にひぐらしが鳴き出した。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
森にひぐらしの声が、聞える時分に、ふと汗ばんだわきのあたりに、涼しい風が当って目がさめると、芳太郎もぼんやりした顔をして、起き直っていた。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
明方になるとあたりの木々でひぐらしがかまびすしい。この虫が明方にも鳴くといふことを私は、この夏初めて知つた。——私は、頬杖をして坐り続けた。
素書 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
そこへゆき着いたときはもう黄昏たそがれの頃である、水田とあしの茂った沼沢にかこまれて、その森は鬱々と昏れかかり、どこかでもの悲しげにひぐらしぜみが鳴いていた。
荒法師 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
貴方がそれを聞きつけて、『あれが河鹿かじかなんですか、あらそう、ひぐらしの鳴くようですわねえ』と仰ったでしょう
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
□四月させる事なし、鉄線開きたけのこ出。ひぐらし鳴き、蚯蚓みみず出、螻蟈けら鳴き、芭蕉実を結ぶ、国人これを甘露と名づく。
涼しい、生き返るような風が一としきり長峰の方から吹きおろして、汗ばんだ顔を撫でるかと思うと、どこからともなくひぐらしの声が金鈴の雨をくように聞えて来る。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
HやNさんに別れたのち、僕等は格別急ぎもせず、冷びえした渚を引き返した。渚には打ち寄せる浪の音のほかに時々澄み渡ったひぐらしの声も僕等の耳へ伝わって来た。
海のほとり (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
法師蝉は歌がおもしろく、それにすばやいのを目のかたきにして追ひまはす。ひぐらしは手におへない。唖蝉の声もたてずに袋のなかで身をもだえるのはあはれである。
銀の匙 (新字旧仮名) / 中勘助(著)
屋敷構やしきがまえから人の気心も純粋の百姓村とは少し違ってる、涼しそうな背戸山ではしきりにひぐらしが鳴いてる、おれは又あの蜩の鳴くのが好きさ、どこの家でも前の往来を綺麗きれいに掃いて
姪子 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
彼等かれらうして時間じかんむなしくつひやしてはとほちかひぐらしこゑが一せいいそがしく各自かくじみゝさわがして、おほきなしやおほうたかとおもやううす陰翳かげ世間せけんつゝむと彼等かれらあわてゝみな家路いへぢく。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
ひぐらしが、時間を一秒一秒刻み込んで、谷の中へ追ひ込んでゆくやうに、キ、キ、キと啼き落す、杉林の一本々々の樹が、どちらから寄るともなく、塊まつて、黒い法師のやうになつて
天竜川 (新字旧仮名) / 小島烏水(著)
松林の中の白い道路をひぐらしのリンリンといふ聲を聞きつつ、停車場をさして歩いた。
滑川畔にて (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
満山の蝉しぐれがうら悲しいひぐらしの声に代り、やがて森の梢がそろ/\黄ばみ始めた時分である。瑠璃光丸は或る日ゆうべの勤行ごんぎょうを終って、文殊楼の前の石段を、宿院の方へ降りて行くと
二人の稚児 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
蹴鞠けまりというものはどういう時間にやるものか、またどの位の時間やっているものか、その辺の知識がないからよくわからぬが、無識のままにこの句を解すると、ひぐらしの聞える夕方になって
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
御院殿坂ごいんでんざかに鳴くひぐらしの声や邸後を通過する列車の騒音を聞くような心持がする。
子規の追憶 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
夕暮の入相いりあいの音、ひぐらしのこえ、それからそれにつれて周囲の小寺から次ぎ次ぎに打ち鳴らされる小さな鐘などをぼんやり聞いていると、何んともかとも言いようのない気もちがされて来るのだった。
かげろうの日記 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
庭には、私の娘が種を播いた黄蜀葵とろろあおいが、かなり大きくなっている。が、まだ蕾は小さい。紅蜀葵は真夏の花であろうが、黄蜀葵は初秋の方がふさわしいかも知れない。不意に、けたたましくひぐらしが鳴く。
日を愛しむ (新字新仮名) / 外村繁(著)
三杯目の土瓶どびんが空になつて、ひぐらしが明神の森に鳴いて居ます。
あかつきはいまだ暗きにこの山にむらがりて鳴くひぐらしのこゑ
つゆじも (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
草の花さきて匂へどひぐらしは来啼けど野辺はさびしくなりぬ
礼厳法師歌集 (新字旧仮名) / 与謝野礼厳(著)
雨の霽れ間を縫つてひぐらしがよく鳴いた。
遠い山からはひぐらし
城のある町にて (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
始めてひぐらしを聞く。
病牀六尺 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
野鵰やてう㯙雲とんうんに舞ひ、黄牛の草に眠るが如し。又春光野に流れて鳥初めて歌ひ、暮風清蔭に湧いてひぐらしの声をすが如し。
閑天地 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
夕立のあがり頃から、田楽狭間でんがくはざま阿鼻叫喚あびきょうかんも、雷鳴かみなりの行方と一緒に、遠く消えて、その後を、実に何のこともなかったように、せみひぐらしが啼いている。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
はなやかにひぐらしの鳴く声を聞きながら、撫子なでしこ夕映ゆうばえの空の美しい光を受けている庭もただ一人見ておいでになることは味気ないことでおありになった。
源氏物語:42 まぼろし (新字新仮名) / 紫式部(著)
羽ばかり秋の蝉、ひぐらしの身の経帷子きょうかたびら、いろいろの虫の死骸しがいながら巣を引挘ひんむしって来たらしい。それ等が艶々つやつやと色に出る。
茸の舞姫 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
一首ひぐらしの歌を引いたが、ありとも見えぬこの小さな蟲の鳴き澄む聲はまつたく夏のあはれさ清らかさをかき含んだものである。ゆふぐれよりも朝がいゝ。
晴れた夏には真先にひぐらしの家になったり、雪霽ゆきばれには青空に劃然くっきりそびゆる玉樹の高い梢に百点千点黒いからすをとまらして見たり、秋の入日のそら樺色にくんずる夕は
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
すっかり秋風が立ち初めて、日の光も和らぎ、ひぐらしも鳴かず、夜は数々の虫ばかり騒々しい頃となった。
糞尿譚 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
ただしんとして四辺あたりには風の折々、さわさわと木の葉の鳴る音ばかりで渓間たにまひぐらしの鳴くのが聞えて、なんだか非常に心細くなって、後へ戻って兄を追うかと思いました。
迷い路 (新字新仮名) / 小川未明(著)
けれどもこの作者さくしや中心ちゆうしんとしてんでゐるのは、そんなところでなく、何事なにごともないごく退たいくつな生活せいかつをしてゐるひとが、けふもまたれて、ひぐらしいてゐるとかうおもつてゐて
歌の話 (旧字旧仮名) / 折口信夫(著)
さて寺の男に水運ばせこけを洗ひつたはがして漫漶まんかんせる墓誌なぞ読みまた写さんとすれば、衰へたる日影のはやくもうすつきてひぐらしきしきる声一際ひときわ耳につき、読難き文字更に読難きに苦しむべし。
礫川徜徉記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
そのため夜は店を閉じても外の明りで十分羽子をつくに足り、夏の郊外などでは真夜中に蝉が鳴きひぐらしが鳴くようになった。こういう燈火の作用は明治時代の人の想像も及ばぬところであろう。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
れがたのかなしげなひぐらしぜみの声を聞きとめて、「ああもう秋だ」とおもったが、それからどれほども経たぬのに、夏のうちは見えなかった林のなかの、松の幹にからみついていたつたかずらの葉が
日本婦道記:不断草 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
そのためになおさら自分のラジオに対する興味は減殺されたようであった。ところが、ある夏の日に友人と二人で郊外の某旗亭きていへ行ってそこで半日寝ころがってひぐらしの声を聞きながら俳諧三昧をやった。
ラジオ雑感 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)