追憶おもいで)” の例文
八歳の時に足利を出て、通りの郵便局の前の小路こうじの奥に一家はその落魄らくはくの身を落ちつけた。その小路はかれにとっていろいろな追憶おもいでがある。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
城太郎のこと、お通のこと、さまざまな追憶おもいでに、しばらくつかれを忘れて歩いていたが、道はいよいよ分らない。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
人を傍に置いていて、そう言って独りで忘れられない、楽しい追憶おもいでに耽っているようであった。
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
御顔に匂いかかる樟脳しょうのうの香を御嗅ぎなさると、急に楽しい追憶おもいでが御胸の中を往たり来たりするという御様子で、私が御側に居ることすら忘れて御了いなすったようでした。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
それでも時々笹村に身を投げかけて来るようなお銀の態度には、破れた恋に対する追憶おもいでの情が見えぬでもなかった。その時の女は、そう想像して見ると、笹村の目に美しく映った。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
幼いころの追憶おもいでが薄くなっても、熊谷の町はまだかれのためになつかしい町、恋しい町、忘れがたい町であったが、今はそれさえ他郷の人となってしまった。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
日に焼けて、茶色になって、汗のすこし流れた其痛々敷いたいたしい額の上には、たしかに落魄という烙印やきがねが押しあててあった。悲しい追憶おもいでの情は、其時、自分の胸を突いて湧き上って来た。
朝飯 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
思はんやさはいへそぞろむさし野に七里を北へ下野しもつけの山、七里を北といへば足利あしかがではないか。君の故郷ぢゃないか。いつか聞いた君のフアストラヴの追憶おもいでではないか。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
何度か寝返を打って、——さて眠られません。青々とした追憶おもいでのさまざまが、つい昨日のことのように眼中めのなかに浮んで来ました。もう私の心にはこの浮華はでな御家の御生活おくらしが羨しくも有ません。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)