)” の例文
後に姓をすずきと書し枕山湖山と並んで詩名を世に知られたのは即この人である。松塘が始めてを星巌に執ったのは十七歳の時だという。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
わたくしは此記の誰が手に成れるかを知らぬが、其人は既に錦橋の門人録をけみしてゐる。を執るものに血判せしめた錦橋の門人録は、或は珍奇なる文書ではなからうか。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
椿岳が師と仰いでを執ったのは大西椿年おおにしちんねんであった。当時椿年は蔵前くらまえに画塾を開いていたので、椿年の画風を喜んだというよりは馬喰町の家から近かったのでその門に入ったのだろう。
賀茂真淵かものまぶち直系の国学者で幕府旗本の士である加藤宇万伎うまきつたが、この師は彼の一生のうちで、一番敬崇を運び、この師の歿ぼっするまで十一年間彼は、この師に親しみを続けて来たほどである。
上田秋成の晩年 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
その時先生はかつて大沼枕山に謁してを執らんことを欲して拒絶せられたことを語られた。枕山が花園町に住していた時だと言われたからその没した年である。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
文政九年湖山は十三歳の時、その父に伴われて京師けいしに往き頼山陽らいさんように謁してその門生となることを許されたが、るに至らずして郷里に帰り大岡松堂の塾に入った。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)