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まきいずみ
ふりがな文庫
“
真木和泉
(
まきいずみ
)” の例文
遠く
山県大弐
(
やまがただいに
)
、
竹内式部
(
たけのうちしきぶ
)
らの勤王論を先駆にして、
真木和泉
(
まきいずみ
)
以来の実行に移った討幕の一大運動はもはやここまで発展して来た。
夜明け前:03 第二部上
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
そのほかに、久留米の神主で、あの
慷慨家
(
こうがいか
)
の
真木和泉
(
まきいずみ
)
が加わる、それから中山卿のお附であった池、
枚岡
(
ひらおか
)
、大沢の三人——中山卿は長州で
亡
(
な
)
くなられたそうじゃ。
大菩薩峠:13 如法闇夜の巻
(新字新仮名)
/
中里介山
(著)
本来、志士なるものが大量的に登場するのは、安政以来のことで、万延・文久
度
(
ど
)
のほうはいたる行動期となって、
真木和泉
(
まきいずみ
)
『義挙三策』に見るように、みずから「義徒」と呼んだ。
志士と経済
(新字新仮名)
/
服部之総
(著)
もとより攘夷は非常手段である。そんな非常手段に訴えても、
真木和泉
(
まきいずみ
)
らの志士が起こした一派の運動は行くところまで行かずに置かないような勢いを示して来た。
夜明け前:01 第一部上
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
もともと
真木和泉
(
まきいずみ
)
らを
急先鋒
(
きゅうせんぽう
)
とする一派の志士が、天下変革の
兆
(
きざし
)
もあらわれたとし、王室の回復も遠くないとして、攘夷をもってひそかに討幕の手段とする運動を起こしたのは
夜明け前:01 第一部上
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
▼ もっと見る
その暮れになって見ると、
天王山
(
てんのうざん
)
における
真木和泉
(
まきいずみ
)
の自刃も、京都における
佐久間象山
(
さくましょうざん
)
の横死も、皆その年の出来事だ。名高い
攘夷
(
じょうい
)
論者も、開港論者も、同じように故人になってしまった。
夜明け前:02 第一部下
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
あそこに
梅田雲浜
(
うめだうんぴん
)
があり、橋本
左内
(
さない
)
があり、
頼鴨崖
(
らいおうがい
)
があり、
藤田東湖
(
ふじたとうこ
)
があり、
真木和泉
(
まきいずみ
)
があり、ここに
岩瀬肥後
(
いわせひご
)
があり、吉田松陰があり、高橋
作左衛門
(
さくざえもん
)
があり、
土生玄磧
(
はぶげんせき
)
があり、
渡辺崋山
(
わたなべかざん
)
があり
夜明け前:04 第二部下
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
その中には、
真木和泉
(
まきいずみ
)
の死も報じてある。
夜明け前:02 第一部下
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
“真木和泉(真木保臣)”の解説
真木 保臣(まき やすおみ、文化10年3月7日(1813年4月7日) - 元治元年7月21日(1864年8月22日))は、江戸時代後期の久留米水天宮祠官、久留米藩士、尊皇攘夷派の活動家。父は真木旋臣、母は中村柳子。神官として従五位下・和泉守の官位を持ち、真木和泉守もしくは真木和泉、真木和泉守保臣として知られる。雅号は紫灘(したん)。贈正四位。
(出典:Wikipedia)
真
常用漢字
小3
部首:⽬
10画
木
常用漢字
小1
部首:⽊
4画
和
常用漢字
小3
部首:⼝
8画
泉
常用漢字
小6
部首:⽔
9画
“真木和泉”で始まる語句
真木和泉守