登米とめ)” の例文
故新左衛門の養嗣子しし采女うねめは、まだ柴田外記げきに預けられて登米とめ郡にいた。そして明くる年の七月に、そこで病死したのだ、と甲斐は思った。
登米とめ以北の旧仙台領においては、区別のために「おかみん」と後をはねている。実用には何のたそくにもならぬが、話をするにはこちらを使うと区別がつく。
雪国の春 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
即ち今の登米とめ郡の登米とよまという北上川沿岸の地から出張し、子の弥一右衛門清久は大崎の古河城、今の小牛田こごた駅より西北の地から出張して、佐沼の城の後詰を議したところ
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
それは陸前の登米とめ本吉もとよし気仙けせんの諸郡から、陸中の東磐井ひがしいわい、江刺(以上旧仙台領)
東奥異聞 (新字新仮名) / 佐々木喜善(著)
此間は佐渡の海府から貰つたが、今度は陸前北上川沿岸の登米とめ町から貰つた。登米町は、去年石の巻に行つた時に、余程行つて見やうかと思つたところだけに、殊になつかしさに堪へなかつた。
(新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
三男は田村家を継いで、いま右京亮宗良うきょうのすけむねよしとなのり、栗原郡岩ヶ崎、一万五千石の館主たてぬしである。五男も分家して、式部宗倫むねともといい登米とめ郡寺池、一万二千石の館主であった。
中央の諸国ではこの語の使用はつとに絶えたけれどもたとえば陸前登米とめ石森いしのもり村の大字加賀野、盛岡市の大字加賀野、越中婦負ねい細入ほそいり村大字加賀沢等、『地名辞書』に見ゆる多くのカガは
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
彼は登米とめ米谷まいや三千石の館主であったが、これで六千石の家老となり、名も外記朝意げきともおきと改めた。
陸前登米とめ米谷まいや町大字米谷字黒仁田
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
御承知のように、登米とめ郡寺池は、遠田郡涌谷の北に当り、互いに領分が接しております。
陸前登米とめ米谷まいや町大字米谷字悪戸原
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
伊達安芸あきの手紙は「地境論」の経過を述べたものであった。安芸の領地の遠田郡涌谷は、伊達式部の領地である登米とめ郡寺池と接していて、寛文三年このかた、三カ所に地境の争いが起こっていた。
カゲヒキ 陸前登米とめ