有栖川宮ありすがわのみや)” の例文
大総督有栖川宮ありすがわのみや錦旗きんき節刀を拝受して大坂にで、軍国の形状もここに至って成ったとの風評はもっぱら行なわれるようになった。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
翌一八八一年(明治十四年)三月になると、左大臣有栖川宮ありすがわのみやから、大隈にたいして、すみやかに意見を提出するようにとの督促があった。大隈はこれにたいして、急進的な意見をさしだした。
外相は桃紅色とうこうしよくの洋服を召したまへる妃殿下をたすけて、先に立ち、宮殿下はエリサベツト夫人と相携あひたづさへて、特別休憩室に入りたまひぬ。やがて有栖川宮ありすがわのみや同妃殿下、山階宮やましなのみや同妃殿下も来たまひぬ。
燕尾服着初めの記 (新字旧仮名) / 徳冨蘆花(著)
有栖川宮ありすがわのみや妃慰子殿下、新樹しんじゅつぼね、高倉典侍、現岩倉侯爵の祖母君、故西郷従道さいごうつぐみち侯の夫人、現前田侯爵母堂、近衛公爵の故母君、大隈おおくま侯爵夫人綾子、戸田伯爵夫人極子を数えることが出来る。
明治美人伝 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
征討大総督有栖川宮ありすがわのみやは西郷隆盛を参謀として東山北陸東海の、三道に分れて押し寄せて来る。二百数十年泰平を誇ったさすが繁華な大江戸も兵燹へいせんにかかって焼土となるのもここしばらくの間となった。
開運の鼓 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
この計画に荷担して幕府に反対しあわせて公武合体派を排斥しようとする有栖川宮ありすがわのみやをはじめ、正親町おおぎまち、日野、石山その他の公卿たちがあったことも見のがせない、と景蔵は言っている。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)