寛保かんぽう)” の例文
さて今日こんにちから寛保かんぽう年間にございました金森家かなもりけ仇討あだうちのお話で、ちとお話にしては堅くるしゅうございますから、近い頃ありましたお話の人情をとりあわせ
寛保かんぽう延享えんきょうの頃の漆絵うるしえ紅絵べにえには早くも西洋風の遠近法を用ひてたくみ遠見とおみの景色と人物群集のじょうとを描きいだせり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
為隣は寛保かんぽう元年正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称の玄春げんしゅんを二世玄瑳げんさと改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳の未亡人びぼうじんとしてのこされた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
その板画出板の年次に至つてはたとへば宝暦ほうれきより寛政かんせいに至る浮世絵全盛期中、西村重長にしむらしげなが寛保かんぽう三年(一七四三年)における、鈴木春信すずきはるのぶの明和二年(一七六五年)における
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
寛保かんぽう三、四年に至り始めて色摺いろずり紅絵べにえ現はれ一枚絵の外また役者似顔の団扇絵うちわえようやく流行せり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)