伊豆守いずのかみ)” の例文
俗に「伊豆さま裏」と呼ばれるその一帯の土地は、松平伊豆守いずのかみの広い中屋敷と、寛永寺の塔頭たっちゅうはさまれて、ほぼ南北に長く延びていた。
赤ひげ診療譚:06 鶯ばか (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
幕府軍の総指揮官松平伊豆守いずのかみの子供(当時十八歳)の従軍日記にそう書いてある。そして信仰の根強さに一驚しているのである。
安吾史譚:01 天草四郎 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
かくしてゆうゆうと待つほどに、やがて鼻息すさまじく早駕籠で飛んで帰ったのは、伊豆守いずのかみのお下屋敷を洗いにいった千鳴りの伝六です。
「おお、わしはしかと約束した。和泉介いずみのすけはわしとも日ごろ仲好しじゃで、妹をくりょうと約束した。いや、和泉介ばかりでない、彼の父伊豆守いずのかみにも言い聞かせたよ。」
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
越中ざかいの勝山城かつやまじょうには、丹羽権兵衛を入れて、七尾城に対抗せしめ、阿尾城あおじょうには、菊地右衛門入道きくちうえもんにゅうどうとその子、伊豆守いずのかみを。——森山城もりやまじょうには、神保氏張じんぼうじはる同苗どうみょうせいろうを。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
慶安けいあんの変に毒薬係を勤めた平見某の弟同苗兵三郎どうみょうひょうざぶろうとその妹お秋、由井正雪、丸橋忠弥その他一党の遺志を継いで老中松平伊豆守いずのかみ阿部豊後守あべぶんごのかみをはじめ、一味の者につらかりし人達へ怨みをむく
ひきつづいて現われましたものは、おなじみ松平伊豆守いずのかみを筆頭に、いずれも今、世にときめいている閣老諸公たちです。
この外に城攻めの上使松平伊豆守いずのかみの子甲斐守輝綱かいのかみてるつなの「島原天草日記」を始め諸藩に記録が残つてゐるが、いづれも城攻めの側の記録であつて、一揆側の記録といふものはない。
島原一揆異聞 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
それをどうにか通り越して、南蔵院という寺の前から、森川伊豆守いずのかみの屋敷の辻番所を横に見て、業平橋を渡ってゆくと、そこらは一面の田畑で、そのあいだに百姓家と植木屋がある。
「松平伊豆守いずのかみ様のお屋敷に、静と申すお腰元がいるはずじゃからな。こちらの名まえをあかさずに届けなよ」
喜んで死ぬとは異様であるが、討伐の上使、松平伊豆守いずのかみの息子、甲斐守輝綱かいのかみてるつな(当時十八歳)の日記に、さう書いてあるのである。「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也」
島原の乱雑記 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
わが捕物とりもの名人むっつりの右門とは、切っても切れぬゆかりの深い知恵宰相伊豆守いずのかみです。
「いやです、あっしゃ今から伊豆守いずのかみさまのお屋敷へ駆け込み訴訟に参りますよ」
べらぼうめ! お奉行になんぞ掛け合ったってらちのあくはずはねえんだから、伊豆守いずのかみのお殿さまへじかに掛け合いにめえりましょうよ! ね! だんな、めえりましょうよ! 行きましょうよ!
だれならぬ名宰相伊豆守いずのかみです。