中村敬宇なかむらけいう)” の例文
碑文によって推察するに同社の学者は三島中洲みしまちゅうしゅう川田甕江かわだおうこう重野成斎しげのせいさい中村敬宇なかむらけいう阪谷朗廬さかたにろうろらである。就中なかんずく三島中洲は毅堂とは最も相親しき友であった。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
中村敬宇なかむらけいう先生がミルの自由論を訳された時には、あれほどの漢学者でありながら訳語に度々窮せられ原語の意味はく分っても、それに該当する訳字を発見せぬので、あて字を用い
デモクラシーの要素 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
中村敬宇なかむらけいう先生が漢文に訳せられた『西国立志編さいごくりっしへん』の原書もたしか読んだように思っている。
十六、七のころ (新字新仮名) / 永井荷風(著)
あたかもその時隣家なる同心中村武兵衛の家に小児が生れた。この小児は維新の後福沢諭吉ふくざわゆきちと並び称せられた洋学者中村敬宇なかむらけいうである。湖山の始めて星巌に謁したのはいつの時であったかあきらかでない。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
熙は初め中村敬宇なかむらけいうの同人社に入り後に佐藤牧山さとうぼくざん信夫恕軒しのぶじょけんとの二家について学を修め、帝国大学を卒業後はただちに助教授に挙げられ、老免せられるまでおよそ三十年漢文の講座を担任していたのであるが
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)