心地ここち)” の例文
紫ははとの胸毛の如くに美しくもいろめたるもの、また緑は流るる水の緑なるが如く、藍は藍めの布の裏地を見る心地ここちにもたとへんか。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ただ無地むじと模様のつながる中が、おのずからぼかされて、夜と昼との境のごとき心地ここちである。女はもとより夜と昼との境をあるいている。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
西郷隆盛さいごうたかもりのそばにいると心地ここちよくおう身体からだから後光ごこうでも出ているように人は感じ、おうは近づくとえりを正さねばならぬほど威厳いげんがあった。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
久しぶりでこのクロを、じぶんひとりで、ほしいままにのってかけるのだが、いまは、そのつばさの力さえなんだかおそい心地ここちがする。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
カルルのつじなる『カッフェエ・ロリアン』に入りて見れば、おもひおもひの仮装色を争ひ、中にまじりし常の衣もはえある心地ここちす。
うたかたの記 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
三河島田圃の方の空が明るくて、賑やかな物音のする心地ここちがすると、あっちが吉原だと言った。昼間よりも、田圃みちを人が通っている。
ただ静かに貴嬢を顧みたまいて貴嬢きみの顔色の変われるに心づき、いかにしたまいし心地ここちしくやおわすると甘ゆるように問いたまいたる
おとずれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
かれは山にり、水に臨み、清風をにない、明月をいただき、了然たる一身、蕭然しょうぜんたる四境、自然の清福を占領して、いと心地ここちよげに見えたりき。
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
すわりずまいをただしている間、たくさんの注視の中にも、葉子は田川夫人の冷たいひとみの光を浴びているのを心地ここち悪いほどに感じた。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
こう怨毒えんどくいずれに向かってか吐き尽くすべきみちを得ずば、自己——千々岩安彦が五尺のまず破れおわらんずる心地ここちせるなり。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
五箇月の長い冬籠ふゆごもりをしたものでなければ、ほとんど想像も出来ないようなこの嬉しい心地ここちは、やがて、私を小諸の家へ急がせた。
芽生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
よっちゃんは、いつも、いまごろ昼寝ひるねをしますので、いい心地ここちねむってしまいました。「おがさめましたら、わたしれてゆきますから。」
時計とよっちゃん (新字新仮名) / 小川未明(著)
この日さのみ歩みしというにはあらねど、暑かりしこととていたく疲れたるに、腹さえいささか痛む心地ここちすれば、酒も得飲までねむりにつく。
知々夫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
この一番にて紳士の姿は不知いつか見えずなりぬ。男たちは万歳を唱へけれども、女の中にはたなぞこの玉を失へる心地ここちしたるも多かりき。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
女がいなくなったことがすでに自分には生命いのちを断たれたと同じ心地ここちがしているのに、自分が一面識のある人間とも知っていたのかと思うと
狂乱 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
その時、不思議にも、門の戸がすうっとひとりでに開きました。王子は夢のような心地ここちで、そこから飛び出してゆかれました。
お月様の唄 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
(俊寛苦しそうに首をたれる)あなたは瓶子の首を取って立ちあがりざま、心地ここちよげに一座を見回して叫びましたね。平氏の首を取るがいいと。
俊寛 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
そして食事をすまして、サルンのストオブの側に椅子いすを取って煙草たばこをふかしていると、幾日かの疲れが出たせいか、心地ここちよく眠気が差して来た。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
学校の当局者は必ず私有の心地ここちして、百事自然に質素勤倹の風を生じ、旧慣に比して大いに費用を減ずべきはむろん、あるいはこれを減ぜざれば
学問の独立 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
大コウモリの二十面相は、とどめをさすように、おそろしい計画を打ちあけて、さも心地ここちよげにあざけり笑うのです。
妖怪博士 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
中の島未決監よりは、監房またさらに清潔にして、部屋というも恥かしからぬほどなり、ここに移れる妾は、ようよう娑婆しゃばに近づきたらん心地ここちもしつ。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
地獄へまっさかさまに落ち込む心地ここちで、「ああ、それにしても、一夜のうちに笑ったり泣いたり、なんてまあ馬鹿ばからしい身の上になったのだろう。」
新釈諸国噺 (新字新仮名) / 太宰治(著)
それは天然てんねん白砂はくさをばなにかでほどよくかためたとったような、心地ここちで、足触あしざわりのさともうしたら比類たぐいがありませぬ。
けさは思いがけない「またへんですよ」の一言に血液のあたたかみもにわかに消えたような心地ここちになってしまった。
去年 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
この時千思万考せんしばんこう佳句を探るに、天の川の趣はついに右三句に言ひ尽されて寸分の余地だもなき心地ここちす。すなわち筆をなげうっ大息たいそくして曰く、みなん已みなんと。
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
路側みちばたのさまざまの商店やら招牌かんばんやらが走馬燈のように眼の前を通るが、それがさまざまの美しい記憶を思い起こさせるので好い心地ここちがするのであった。
少女病 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
その上この住居は、二人の婦人で保たれているので、いたるところ心地ここちよいほどきれいであった。それが司教の許した唯一の贅沢だった。彼は言った。
この死ぬような間の山節を、死ぬような心地ここちで聞いていたものが、五人づれの客と、それを取巻くここの一座のほかに、まだ一人はあったのであります。
大菩薩峠:06 間の山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
みちかたわらにこれを立て少しくもたれかかるようにしたるに、そのまま石とともにすっと空中にのぼり行く心地ここちしたり。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
ほのぼのとした生の感覚や、少年の日の夢想が、まだその部屋には残っているような心地ここちもした。だが彼は悶絶もんぜつするばかりに身をこわばらせて考えつづけた。
死のなかの風景 (新字新仮名) / 原民喜(著)
苦しさに堪えかねて、暫時しばし路傍みちのべうずくまるほどに、夕風肌膚はだえを侵し、地気じき骨にとおりて、心地ここち死ぬべう覚えしかば。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
雪もよいの闇空やみぞらから吹く新鮮な冷風が心地ここちよくびんや顔に当たっても枯れ果てた心の重苦しさはなおらなかった。
妙音清調会衆はな天国に遊びし心地ここちせしが主人公もまた多年のたしなみとて観世流の謡曲羽衣はごろもうたい出しぬ。客の中には覚えず声に和して手拍子を取るもあり。
食道楽:冬の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
象は、長い鼻の先でフウフウと息をしながら、新吉の頭やかたへさわってみました。新吉は生きた心地ここちがしません。けれど象はそれっきりおとなしくなりました。
曲馬団の「トッテンカン」 (新字新仮名) / 下村千秋(著)
しかし幸福の反映がまだ彼女のうちに残っていた。そして彼女はまたいっそう頼もしい心地ここちで生活しだした。クリストフを得られないと絶望してはいなかった。
筆とりてひとかどのこと論ずる仲間ほど世の中の義捐ぎえんなどいふ事にひややかなりと候ひしあざけりは、私ひそかにわれらにかかはりなきやうの心地ここち致しても聞きをり候ひき。
ひらきぶみ (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
ドヴォルシャークの名を思い浮べて、静かに眼を閉じることによって、私は「新世界交響曲ニュー・ワールド・シンフォニー」の第二楽章ラルゴーに出て来る有名な旋律を活々いきいきと聴く心地ここちがするのである。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
逃げよ思ても手頸てくび握られてますし、光る物見たら気が顛倒てんとうしてしもて、眼エつぶってる間に、咽喉のどでもどないぞしられるのんやないかと生きてる心地ここちせえしませなんだけど
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
彼を睡らせるために唄う子守唄のようになめらかに、静かに、心地ここちよく彼の耳に響いて来た。
六月 (新字新仮名) / 相馬泰三(著)
轟然たる物の音響ひびきの中、頭を圧する幾層の大廈たいかに挾まれた東京の大路を、苛々いらいらした心地ここちで人なだれに交つて歩いた事、両国近い河岸かし割烹店レストーラントの窓から、目の下を飛ぶ電車、人車
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
「うん。わしももう生きた心地ここちがないのじゃ。……ドレ皆の衆に追いつかにゃ……」
地球盗難 (新字新仮名) / 海野十三(著)
来て見たところが、ソクラテスは、さも心地ここちよさそうに安眠しておったのである。
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
ところが、子どもたちのほうでは、そんなちっぽけなものが、両手をひろげて、じぶんたちのほうへ、けてくるのを見ますと、生きた心地ここちもないほど、びっくりしてしまいました。
アンドレイ、エヒミチはアッとったまま、緑色みどりいろ大浪おおなみあたまから打被うちかぶさったようにかんじて、寐台ねだいうえいてかれたような心地ここちくちうちには塩気しおけおぼえた、大方おおかたからの出血しゅっけつであろう。
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
こゝにこの水流るゝがために、水を好む野茨のばら心地ここちよく其のほとりに茂って、麦がれる頃は枝もたわかんばしい白い花をかぶる。薄紫の嫁菜よめなの花や、薄紅の犬蓼いぬたでや、いろ/\の秋の草花も美しい。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
此処にちやくしてはじめて社会にでたるの心地ここちせられ、其愉快ゆくわいじつに言ふべからず。
利根水源探検紀行 (新字旧仮名) / 渡辺千吉郎(著)
小屋にはとこはない、土の上にむしろを敷いたばかりだが、その土は渓の方へ低くなっている。囲炉裡に足を入れていては、勢い頭は低い方に向く、頭の足より低いのは、一体心地ここちのよいものではない。
白峰の麓 (新字新仮名) / 大下藤次郎(著)
恐ろしい予感が刻々迫って来て、こういう悲惨を聞く日があるのを予期しない事はなかったが、その日の朝刊の第一面の大活字を見た時は何ともいい知れないおののきが身体中からだじゅうを走るような心地ここちがした。
最後の大杉 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
氣が妙にうはついて來て、フワ/\と宙でも歩いてゐるかの心地ここち。で車の響、人の顔、日光に反射する軒燈の硝子のきらめき、眼前にチラ/\する物の影物の音が都て自分とは遠くへだツてゐるかと思はれる。
昔の女 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
ながらふるほどはけれど行きめぐり今日はその世に逢ふ心地ここちして
源氏物語:10 榊 (新字新仮名) / 紫式部(著)