向側むこうがわ)” の例文
寒い時分で、私は仕事机のわき紫檀したん長火鉢ながひばちを置いていたが、彼女はその向側むこうがわ行儀ぎょうぎよく坐って、両手の指を火鉢のふちへかけている。
陰獣 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
しかし、彼女と並んで向側むこうがわを歩いている女が、赤い日傘をさした十五六歳の少女だと気がつくと、声をかけるのが妙にためらわれた。
次郎物語:02 第二部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
もなく日比谷ひびやの公園外を通る。電車は広い大通りを越して向側むこうがわのやや狭い街の角に止まるのを待ちきれず二、三人の男が飛び下りた。
深川の唄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
今の三越の向側むこうがわにいつでも昼席の看板がかかっていて、そのかどを曲ると、寄席はつい小半町行くか行かない右手にあったのである。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
水船の舷側にヘバリ付いてブカブカ遣っていることがわかった……ちょうど向側むこうがわだったから甲板デッキの上から見えなかったんだね。
爆弾太平記 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
其の日は洗馬に泊りまして、翌朝よくちょう宿を立って、お繼が柄杓を持って向う側を流して居ると、その向側むこうがわを流してく巡礼がある。
敵討札所の霊験 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
店は熔炉ようろ火口ひぐちを開いたように明るくて、馬鹿馬鹿しくだだっ広い北海道の七間道路が向側むこうがわまではっきりと照らされていた。
カインの末裔 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
両側に軒の並んだ町ながら、この小北の向側むこうがわだけ、一軒づもりポカリと抜けた、一町内の用心水ようじんみず水溜みずたまりで、石畳みは強勢ごうせいでも、緑晶色ろくしょういろ大溝おおみぞになっている。
国貞えがく (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
蒸気車にのってあの地峡ちきょうえて、向側むこうがわに出て又船に乗て、丁度三月十九日に紐育ニューヨークに着き、華聖頓ワシントン落付おちついて、取敢とりあえず亜米利加の国務卿にうて例の金の話を始めた。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
向側むこうがわに細君を連れて腰を掛けている男が、「かえって一等の方がんでいるよ」と、細君に話していた。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
アッと云う敵の声と同時に、向側むこうがわからもアッと云う叫びが起った。
水晶の栓 (新字新仮名) / モーリス・ルブラン(著)
男は向側むこうがわで体を背後うしろに寄せ掛けて、物を案じている。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
それはむしろ薄い小形の本だったので、ついほかのものの向側むこうがわへ落ちたなり埃だらけになって、今日きょうまで僕の眼をかすめていたのである。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
路地ろじうちしんとしているので、向側むこうがわの待合吉川で掛ける電話のりんのみならず、仕出しを注文する声までがよく聞こえる。
雪解 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
すると、墓地の向側むこうがわ庫裏くりらしい建物があって、今丁度そこの入口を開いて、たれかが中へはいるところであった。
一寸法師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
じっと暮れかかる向側むこうがわの屋根をながめて、其家そこ門口かどぐちたたずんだ姿を、松崎は両三度、通りがかりに見た事がある。
陽炎座 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
天気はまだ少し蒸暑いが、余り強くない南風が吹いていて、しのぎ好かった。船宿は今は取り払われた河岸かしで、丁度亀清かめせい向側むこうがわになっていた。多分増田屋であったかと思う。
百物語 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
此の人は洗馬で向側むこうがわを流して居て、宮之越で合宿あいやどになった巡礼だ、其の時は怖いと思ったから言葉も掛けなかったが、何うも飛んだ災難じゃアないか、此の人は何うしたんだろう、目をまわして居る
敵討札所の霊験 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
健三は時々薄暗い土間どまへ下りて、其所そこからすぐ向側むこうがわの石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へのぼった。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ホラ御覧なさい。あすこの黒板塀が細く破れているでしょう。丁度あの向側むこうがわが人形師の安川の仕事場になっているのですよ。あなたすみませんが、暫くあすこを
一寸法師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
路地の外で自動車が発動機の響を立て始めたのは、大方向側むこうがわの待合からお客が帰る処なのであろう。
雪解 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
東に向いている、西洋風の硝子窓ガラスまど二つから、形紙を張った向側むこうがわの壁まで一ぱいに日が差している。この袖浦館という下宿は、支那しな学生なんぞを目当にして建てたものらしい。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
小春なぎのほかほかとした日和ひよりの、午前十一時半頃、汽車が高崎に着いた時、彼は向側むこうがわを立って来て、弁当を買った。そして折を片手に、しばらく硝子窓に頬杖ほおづえをついていたが
革鞄の怪 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「恐れ入ります」と小野さんはちょっと笑ったがすぐ眼をそらした。向側むこうがわ硝子戸ガラスどのなかに金文字入の洋書が燦爛さんらんと詩人の注意をうながしている。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「鏡をじっと見つめていると、こわくなりやしませんか。僕はあんな怖いものはないと思いますよ。なぜ怖いか。鏡の向側むこうがわに、もう一人の自分がいて、猿の様に人真似をするからです」
目羅博士の不思議な犯罪 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
表の窓際まどぎわまで立戻って雨戸の一枚を少しばかり引き開けて往来を眺めたけれど、向側むこうがわ軒燈けんとうには酒屋らしい記号しるしのものは一ツも見えず、場末の街は宵ながらにもう大方おおかたは戸を閉めていて
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
行き当りを見ると一間ほどの入口が明け放しになって、中をのぞくとがんがらがんのがあんと物静かである。その向側むこうがわで何かしきりに人間の声がする。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
二本榎高野山の向側むこうがわなる上行寺じょうぎょうじは、其角きかくの墓ある故に人の知る処である。
右手を見ると、向側むこうがわの電燈が、緋色のカーテンを、美しく照らしている。
魔術師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
上野は浅草へ行くみちである。同時に日本橋へ行く路である。藤尾は相手を墓の向側むこうがわへ連れて行こうとした。相手は墓に向側のある事さえ知らなかった。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
建物の壁は、蔭になっているけれど、向側むこうがわの月あかりが反射して、物の形が見えぬ程ではありません。ジリジリと眼界を転ずるにつれて、果して、予期していたものが、そこに現われて来ました。
目羅博士の不思議な犯罪 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
しかしこの煙りが晴れたら——もしこの煙りが散り尽したら、きっと見えるに違ない。浩さんの旗が壕の向側むこうがわに日を射返して耀かがやき渡って見えるに違ない。
趣味の遺伝 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
湿うるおえる燄は、一抹いちまつに岸をして、明かに向側むこうがわへ渡る。行く道によこたわるすべてのものを染め尽してやまざるを、ぷつりとって長い橋を西から東へける。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
と云うのは、向側むこうがわに腰をかけている母が、嫂と応対の相間あいま相間に、兄の顔をぬすむように一二度見たからである。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
戸の向側むこうがわに足音がしないから、通じないのかと思って、再び敲子に手を掛けようとする途端とたんに、戸が自然じねんいた。自分は敷居から一歩なかへ足を踏み込んだ。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
御前のような夷狄いてきは東京にゃ調和しないから早く帰れったら、わたしもそう思うって帰って行きました。どうしても、ありゃ万里の長城の向側むこうがわにいるべき人物ですよ。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
お延は隠れるように身をちぢめた。それでも向側むこうがわの双眼鏡は、なかなかお延の見当から離れなかった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
寒い時分だから池の中はただ薄濁りによどんでいるだけで、少しも清浄しょうじょうおもむきはなかったが、向側むこうがわに見える高い石の崖外がけはずれまで、縁に欄干らんかんのある座敷が突き出しているところが
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
念のため、手を離さずに足元の様子を見ると、梯子はしごは全く尽きている。踏んでいる土も幅一尺で切れている。あとは筒抜つつぬけの穴だ。その代り今度は向側むこうがわに別の梯子がついている。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
宗助は微笑しながら、急忙せわしい通りを向側むこうがわへ渡って、今度は時計屋の店をのぞき込んだ。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
うららかな春日はるびが丸窓の竹格子たけごうしを黒く染め抜いた様子を見ると、世の中に不思議と云うもののひそむ余地はなさそうだ。神秘は十万億土じゅうまんおくどへ帰って、三途さんずかわ向側むこうがわへ渡ったのだろう。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その時K君は地中海の向側むこうがわへ渡るんだと云って、しきりに旅装をととのえていた。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
千代子はすぐ叔母のそばへ来て座に着いた。須永も続いて這入はいって来た。そうして二人の向側むこうがわにある涼み台みたようなものの上に腰をかけた。清もおかけと云って自分の席をいてやった。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
かみさんは、いつのにか盆を拭いてしまって、菓子台の向側むこうがわに立っている。自分は不意と眼を上げて神さんを見た。すると神さんは何と思ったか、いきなり、節太ふしぶとの手を皿の上にかざして
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ぽつりぽつりと窓硝子まどガラスを打つたびに、点滴のたまを表面に残して砕けて行く雨の糸を、ぼんやり眺めていた四十恰好しじゅうがっこうの男が少し上半身を前へかがめて、向側むこうがわ胡坐あぐらいている伴侶つれに話しかけた。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
向側むこうがわを見ると青嶋あおしまが浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石とまつばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望ちょうぼうしていい景色だと云ってる。
坊っちゃん (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
やがて、山を降りて梨畠へ行こうとしたが、正門から這入はいるのが面倒なので、どうです土堤どてを乗り越そうじゃありませんかと案内が云い出した。余はすぐ賛成して蒲鉾形かまぼこがた土塀どべい向側むこうがわりた。
満韓ところどころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
だんだんって少しこっち側の半径が長過ぎるからと思ってそっちを心持落すと、さあ大変今度は向側むこうがわが長くなる。そいつを骨を折ってようやくつぶしたかと思うと全体の形がいびつになるんです。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
すると摺硝子すりガラス向側むこうがわで、ちょっと明けなさいと云う声がする。
満韓ところどころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)