石高こくだか)” の例文
軸に書かれた八郎次の孫なる当代大和田十郎次は、旗本も旗本、石高こくだか二千八百石を領する小普請頭こぶしんがしらのちゃきちゃきだったからです。
ずっと以前の例によると、助郷を勤める村々は五か年を平均して、人足だけでも一か年の石高こくだか百石につき、十七人二分三厘三毛ほどに当たる。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そして従来石高こくだかを以て給せられていたものは、そのまま俵と看做みなして同一の削減を行われた。そして士分を上士じょうし、中士、下士にわかって、各班に大少を置いた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
少し行きますと、左側は松平まつだいらという華族の邸でした。やはり黒板塀の門ですが、あまり大きくはありません。亀井家が四万三千石でしたから、それよりも石高こくだかが少かったのでしょう。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
一旦開発せられて人家二十三戸、石高こくだか五十五石の検地まですんでいたのに、鼠があまり多く農作を不可能にしたために、引地ひきちすなわち村を撤回したということが、岩国藩の旧記にしるされていて
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
「おれのじゃあねえ、家に付いた石高こくだかだぜ」
へちまの木 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
馬の四分とか、人足の五分とかは、石高こくだかに応じての歩合ぶあいをさして言うことであって、村々の人馬はその歩合によって割り当てを命じられて来た。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
全国の石高こくだかを幕府、諸大名、御料、皇族並公卿、社寺に配当したのを見るに、左の通である。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)