涌谷わくや)” の例文
増し御合力ごごうりき(勝手もと不如意の理由で、一門一家はじめ全家中に対して献上金を申付ける件)について、涌谷わくやから御異議がまいりました。
これは渡辺金兵衛等のすゝめによつて原田甲斐が取り計らつたのである。伊達安芸は遠田とほだ郡を領して涌谷わくやに住んでゐたが、其北隣の登米とよま郡は伊達式部が領して、これは寺池に住んでゐた。
椙原品 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
周防すおうどのだ」と甲斐が云った、「国から涌谷わくやさまが来られた、藩邸にはまだ内密で、小石川の普請小屋に周防どのとおられる」
甲斐が大町の屋敷へ帰ると、片倉隼人はやとが「涌谷わくやから密使が来ている」と告げた。甲斐は頷いて、風呂へはいる、と云い、そのまま居間のほうへいった。
「私は涌谷わくやさまにも、松山どのにも会って、以上の経緯を聞きました、しかし、御両所とも、いまでは船岡どのの御心底危ぶまれる、と申されるのです」
涌谷わくや(伊達安芸あき)と寺池(式部宗倫むねとも)の地境論が、涌谷の譲歩によって解決したということは、こちらで聞いた。
弓を引こうとさそったのは式部であるが、その目的はほかにあったようで、式部はあまり弓を引かず、涌谷わくや(伊達安芸)の横暴について、しきりに訴えていた。
一ノ関どの、涌谷わくやどの、弾正だんじょうどの、周防すおう、大条、片倉どの、おのれとも七人。立花侯、奥山大学は不参。
去年、涌谷わくやさまと三人で話したとき、船岡はわれわれが離反しなければならぬと云った、一ノ関の眼を
伊達家の麻布屋敷にいた伊達安芸あきは、早朝に起きて沐浴もくよくし、白の下襲したがさねを着て朝食のぜんに向かうと、涌谷わくやから供をして来た家従たち、老臣から小姓頭などに、盃を廻した。
「失礼ですが」と甲斐は主膳をさえぎって云った、「ちょっと涌谷わくやさまに挨拶をしてまいります」
それは涌谷わくやが示唆したものであるし、甲斐を一ノ関の与党であるとみせるための工作であったが、——しかし外記ほどの人物なら、理を尽して話せばわかってくれるであろう。
涌谷わくやとも疎隔された、所労と称して船岡にこもり、仙台本城への勤めも怠っていた、それが一ノ関に推されると、たちまち上府して国老となり、かねて問題になっていた金山所属の件を