正教まさのり)” の例文
しかし正弘は柏軒を獲た次年丁巳に、たま/\篤疾とくしつに罹つて、遂に柏軒の治を受けて世を去つた。そして阿部家は伊予守正教まさのりの世となつた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
阿部家では新主伊予守正教まさのりが八月に入国した。わたくしは其供廻ともまはりの誰々であつたかを知らぬが、医官中に伊沢氏の無かつたことは明である。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
賢之助は致仕正寧まさやすの長男で、即伊予守正教まさのりである。先代正弘は棕軒正精まさきよの六男で、正寧の弟であつたから、正教は叔父しゆくふのちを承けたのである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
枳園きえんはこの年七月に東京から福山にうつった。当時の藩主は文久元年に伊予守正教まさのりのちけた阿部あべ主計頭かぞえのかみ正方まさかたであった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
阿部家では抽斎の歿するに先だつこと一年、安政四年六月十七日に老中ろうじゅうの職におった伊勢守正弘が世を去って、越えて八月に伊予守正教まさのりが家督相続をした。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
小島成斎は藩主阿部正寧まさやすの世には、たつくちの老中屋敷にいて、安政四年に家督相続をした賢之助けんのすけ正教まさのりの世になってから、昌平橋うちの上屋敷にいた。今の神田淡路町あわじちょうである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)