正寧まさやす)” の例文
行状の書する所は阿部正寧まさやすの初度のたまもので、「章服」は「御垢附御羽折」である。此賜は二月二日の生日に於てせられたこととおもふ。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
一日あるひ榛軒は阿部侯正寧まさやすに侍してゐた。正寧は卒然昵近の少年を顧みて云つた。「良安は大ぶ髪が伸びてゐるやうだ。あれを剃つて遣れ」
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
阿部家はついで文政九年八月に代替だいがわりとなって、伊予守正寧まさやすほういだから、蘭軒は正寧の世になったのち足掛あしかけ四年阿部家のやかた出入いでいりした。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
某年の春阿部侯正寧まさやすは使を遣はして吉野桜の一枝を乞うた。榛軒は命を奉ぜなかつた。そして使者と共に主に謁し、叩頭こうとうして罪を謝した。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
十二月四日に、備後国福山の城主阿部伊予守正寧まさやすの医官岡西栄玄おかにしえいげんじょ徳が抽斎に嫁した。この年八月十五日に、抽斎の父允成は隠居料三人扶持を賜わった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
小島成斎は藩主阿部正寧まさやすの世には、たつくちの老中屋敷にいて、安政四年に家督相続をした賢之助けんのすけ正教まさのりの世になってから、昌平橋うちの上屋敷にいた。今の神田淡路町あわじちょうである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)