於義丸おぎまる)” の例文
この夏以来の——いや小牧講和の前後から、名は秀吉の養子でも、実際は、質子ちしとして、家康の一子於義丸おぎまるが、大坂城へ送られたときから——
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
家康(中略)、おのが庶子於義丸おぎまるを遣し、石川数正が子の勝千代と、作左衛門が子の仙千代とを附添へて都に登しぬ。
大久保湖州 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
三十六さい右近衛権少将うこんえごんしょうしょうにせられた家康の一門はますます栄えて、嫡子ちゃくし二郎三郎信康が二十一歳になり、二男於義丸おぎまる秀康ひでやす)が五歳になった時、世にいう築山殿つきやまどの事件が起こって
佐橋甚五郎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
年暮くれに押しつまって、家康の一子於義丸おぎまるが、表面は、秀吉の養子としてだが——実は、人質として——大坂城に着いた。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
まもなく、石堂十馬、畠山五郎、仁木於義丸おぎまる、そのほか、尊氏の他行にはつねに随参している若党輩わかとうばらが、ひとりの男をとりかこんで坂下からもどって来た。
尊氏につづいて、大高たいこう伊予、桃井修理、佐竹義敦よしあつ、また近侍の石堂十馬、畠山五郎、仁木於義丸おぎまるなども、床几の左右にずらりと居ならぶ。——あたりはもうほの青い夕だった。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
仁木於義丸おぎまる、同義照、畠山五郎、佐竹義敦よしあつなどが抜きつれて、阿修羅あしゅらの菊水兵を相手に火をふらして防ぎたたかい、血けむり、地ひびき、組んずほぐれつの肉塊にっかい、すでに相互とも幾十の死者を出し
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
こばんだのは、畠山五郎、仁木於義丸おぎまるたち。また一色右馬介も
家康の子、於義丸おぎまるは、浜松の城を出て、大坂へ送られた。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)