この時の中幕「吃又」に、団十郎の又平、菊五郎のおとくが、演劇史の上に、大きな記念をつくつた。
唯一の呼び物は「反魂香」の吃又、又平の吃りに特別念入りの引きどもで一言一句五体をふるわして絞り出す必死の苦しみ、満面の汗は滝の如く拳を握り膝を叩き
大阪下りと云う触れ込みで、番附に大きく名を出している呂太夫の「吃又」が始まったのは十時過ぎだったが、それから間もなく見物席でえらい騒ぎが持ち上った。
“吃又(傾城反魂香)”の解説
『傾城反魂香』(けいせい はんごんこう、契情反魂香とも)は歌舞伎・人形浄瑠璃の演目。三段構成のうち、現在は上の段の「土佐将監閑居の場」、通称「吃又」(どもまた)がよく上演される。
元は近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、宝永5年 (1708) 大坂竹本座初演。狩野元信の150回忌を当て込んで書かれた作品で、絵師狩野元信と恋人・銀杏の前の恋愛に、正直な絵師又平(岩佐又兵衛がモデル)の逸話と、名古屋山三と不破伴左衛門との争いから来るお家騒動をないまぜにしたものである。歌舞伎化は享保4年 (1719) 大坂。初演後ほどなく、人形浄瑠璃・歌舞伎ともに「吃又」の部分が単独で繰り返し上演されるようになった。
(出典:Wikipedia)
元は近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、宝永5年 (1708) 大坂竹本座初演。狩野元信の150回忌を当て込んで書かれた作品で、絵師狩野元信と恋人・銀杏の前の恋愛に、正直な絵師又平(岩佐又兵衛がモデル)の逸話と、名古屋山三と不破伴左衛門との争いから来るお家騒動をないまぜにしたものである。歌舞伎化は享保4年 (1719) 大坂。初演後ほどなく、人形浄瑠璃・歌舞伎ともに「吃又」の部分が単独で繰り返し上演されるようになった。
(出典:Wikipedia)
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