中津藩なかつはん)” の例文
中津藩なかつはんどもばかりでなく、ほかからも入門にゅうもんするものがあって、十にんあまりの生徒せいとに、諭吉ゆきちは、毎日まいにちオランダをおしえていました。
当時、諭吉はきゅう中津藩なかつはんの士族にして、つと洋学ようがくに志し江戸に来て藩邸内はんていないに在りしが、軍艦の遠洋航海えんようこうかいを聞き、外行がいこうねんみずから禁ずるあたわず。
このとしがくれて、文久ぶんきゅうがん(一八六一)ねんになると、諭吉ゆきちは、おなじ中津藩なかつはん上級士族じょうきゅうしぞく土岐太郎八ときたろはち次女じじょきんとけっこんしました。
そのころ、中津藩なかつはん空気くうきだい西洋せいようぎらいでしたから、諭吉ゆきち気持きもちなどさっしてくれるものがないのも、むりはありません。