仄暗ほのぐら)” の例文
仄暗ほのぐらい天井の節穴をみつめながら、その夜一晩、どんなに床上に転々して、まんじりともせず長い夜を、苦しみ抜いたか知れません。
仁王門 (新字新仮名) / 橘外男(著)
仄暗ほのぐらいスタンドの灯かげが壁をてらしている光景が目に入った刹那、上体を右腕の上に、膝のうしろを左腕の上に掬われている伸子は
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
鶏の鳴きかわす声が遠近あちこちの霧の中に聞える。坂を越して野辺山が原まで出てまいりますと、霧の群は行先ゆくてに集って、足元も仄暗ほのぐらい。
藁草履 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
しょくはまたたいているだけで仄暗ほのぐらい。さし込む月のほうが明るかった。手枕で横になっている人の足の爪にまで、その白い光はうつしていた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そこから仄暗ほのぐらく射し込んで来る馬車ランプや、向い合っている乗客の嵩ばった図体などが、銀行に変って、一大支払をやっているのだった。
翌る朝おくみが一人四畳で目をくと、婆やはすでにいつの間にか起きて、板の間でこそ/\と仄暗ほのぐらい水使ひの音をさせてゐた。
桑の実 (新字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
その堀の向うが西部二部隊であったが、仄暗ほのぐらい緑の堤にいま躑躅つつじの花が血のように咲乱れているのが、ふと正三の眼に留った。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
例の赤外線男が出て来そうな気配けはいだったが、しかし仄暗ほのぐらいながら電灯がついているから停電でもしない限りず大丈夫だろう。
赤外線男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
と、たちまち眼の前の、ぼーっとした仄暗ほのぐらい空を切り裂いて、青光りのする稲妻が、二条ふたすじほどのジグザグを、たてにえがいた。
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
二人は仄暗ほのぐらい木蔭のベンチを見つけて、そこに暫く腰かけていた。涼しい風が、日にけ疲れた二人の顔に心持よくそよいだ。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
足軽長屋のわが住居へ帰ってみると、もう仄暗ほのぐらいのに燈がいていない、はいってみると汀は留守だった、隣へ声をかけると女房が顔をだして
足軽奉公 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
白痴の花嫁——そのいつか来るかもしれない、明日の夢のようなものが、私の心の中で、絶えず仄暗ほのぐらくすぶっているのです。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
オルガンティノは気味悪そうに、声のした方をかして見た。が、そこには不相変あいかわらず仄暗ほのぐらい薔薇や金雀花えにしだのほかに、人影らしいものも見えなかった。
神神の微笑 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
併しやがて、ふり向いて、仄暗ほのぐらくさし寄って来ている姥の姿を見た時、言おうようないおそろしさと、せつかれるような忙しさを、一つに感じたのである。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
仄暗ほのぐらいうちに起きて家人の眼をかくれ井戸端でお米をいだりして、眠りの邪魔をされる悪口ならまだしも、私がひがんで便所に下りることも気兼ねして
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
蓮鉢を越して向ふ側の廂房しやうばうから、眼でもましたのだらう、急に赤ん坊の癇走かんばしつた泣き声が聞えて来た。梧桐は仄暗ほのぐらく、蓮は仄白く、赤ん坊の声だけが鋭い。
南京六月祭 (新字旧仮名) / 犬養健(著)
五月雨頃さみだれごろの、仄暗ほのぐらく陰湿な黄昏たそがれなどに、水辺に建てられた古館があり、たちばなの花がわびしげに咲いてるのである。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
身をひるがえして、日も射さねば仄暗ほのぐら拱廊きょうろうをやや急ぎ足に渡つて行く。黒い影が、奥まつた急な階段をものの二丈ほど音もなく舞ひ昇つて、やがて上の姫の居間のしきいに立つた。
ジェイン・グレイ遺文 (新字旧仮名) / 神西清(著)
そのラッカアりの船腹が、仄暗ほのぐらい電燈に、丸味をおび、つやつやしく光っているのも、みょうに心ぼそい感じで、ベランダに出ました。遥か、浅草あさくさ装飾燈そうしょくとうが赤くかがやいています。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
そこには大きな杉の林があつて、一面にかさなつた杉の幹のごく少しの隙間から川が見えた。船の帆が見えた。足もとには大きな歯朶しだが茂つて居る、小道はいつも仄暗ほのぐらかつた。
菊枝はそれにも、仄暗ほのぐらい中で、眼で挨拶したきりだった。併し、それから先の夜路を、豊作と二人だけの語らいを語ることの出来るのは、彼女にとっては、嬉しいことであった。
駈落 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
初冬の夜もしだいにけて、清水寺きよみずでらの九つ(午後十二時)の鐘の音が水にひびいた。半九郎は仄暗ほのぐらい灯の前に坐って、自分の朋輩の血を染めたやいばに、更に自分の血を塗ろうとした。
鳥辺山心中 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
そうして唇の下縁したふちの深い、痛々しい陰影の前まで来ると、そこでちょっと停滞して、次第次第にまんまるい水滴の形にふくれ上って行くと同時に、仄暗ほのぐら安全燈ラムプの光りを白々と、小さく
斜坑 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
しかし仄暗ほのぐらい金堂のうちに佇立して、白焔はくえんの燃え立ったまま結晶したようなあの時の面影おもかげはみられない。金堂の内部では何の手も加えられず、実にそっけなく諸仏のあいだに安置されてあった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
城下のはてに霧をひらいて、銀線の揺れつつ光る海の上に、紅日、山のの松を沈むこと二三寸。煙のあとの森も屋根も、市街はしっとりと露を打って、みはらしの樹の間の人影は、毛氈もうせんとともに仄暗ほのぐらい。
明りも仄暗ほのぐらくしか届かない部屋の片隅に、壁をうしろにして、消えも入りたげに、じっとうつ向いている若い女の姿を見出したからであった。
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
自分が記念に置いて往った摺絵すりえが、そのままに仄暗ほのぐらく壁に懸っている。これが目につくと、久しぶりで自分のうちに帰ってきでもしたようになつかしくなる。
千鳥 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
まこと、その二つのものは、冷たい海の上に現われた幻のように、それとも、仄暗ほのぐらい影絵としか思えないのだった。
紅毛傾城 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
やがて仄暗ほのぐらい夜の色が、縹渺ひょうびょうとした水のうえにはいひろがって来た。そしてそこを離れる頃には、気分の落著おちついて来たお島は、腰の方にまたはげしい疼痛とうつうを感じた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
彼はなかなか泣きやまない嬰児えいじを抱きあげ、馴れぬ子守唄を歌いながら、仄暗ほのぐらい行燈の光の下にうつらうつらまどろんでいる病床の妻のやつれはてた寝顔を見ては
日本婦道記:二十三年 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
夢がだんだん仄暗ほのぐらくなったとき、突然、海の上を光線が走った。海は真暗に割れて裂けた。わたしはわたしに弾きかえされた。わたしはわたしにいらだちだした。
鎮魂歌 (新字新仮名) / 原民喜(著)
熱帯の陽はそこに赫々かくかくとして輝き、白雲はくらめかしく悠々と白光のうちにうかんでいるにもかかわらず、密林は妖しげな陰影かげをうつろわせて、天日もなんとなく仄暗ほのぐら
令嬢エミーラの日記 (新字新仮名) / 橘外男(著)
中村は春のオヴァ・コオトの下にしみじみと寒さを感じながら、人気ひとけのない爬虫類の標本室をうしろに石の階段を下りて行った。いつもちょうど日の暮のように仄暗ほのぐらい石の階段を。
早春 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
千登世は停留所まで圭一郎を迎へに出て仄暗ほのぐらい街路樹の下にしよんぼりと佇んでゐた。
業苦 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
仄暗ほのぐらしべの処に、むらむらと雲のように、動くものがある。黄金の蕋をふりわける。其は黄金の髪である。髪の中から匂い出た荘厳な顔。閉じた目が、憂いを持って、見おろして居る。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
私は塔をみあげながら金堂の後をまわって、案内人に導かれつつ慎んでとびらの内へ入ったのである。仄暗ほのぐらい堂内には諸々もろもろの仏像が佇立し、天蓋てんがいには無数の天人が奏楽し、周囲には剥脱はくだつした壁画があった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
そして、仄暗ほのぐらい草の陰から、ジット彼女の顔を見上げていた。
童貞 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
気の弱い者がこの蚊うなりのする仄暗ほのぐらい書院の内で、一目そのお顔を不意に仰いだら、気を失ってしまうかも知れない。
大谷刑部 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
まだ仄暗ほのぐらい朝の五時、いま明けた許りの宇野家の門をはいって、こわ高に玄関で案内を乞う者があった。
評釈勘忍記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
彼が玄関を出ると、外は仄暗ほのぐらい夜明だった。どこの家もまだ戸をとざしていたが、町医のベルを押すと、灯がついて戸は開いた。医者は後からすぐ行くことを約束した。
美しき死の岸に (新字新仮名) / 原民喜(著)
大学生の中村なかむらうすい春のオヴァ・コオトの下に彼自身の体温を感じながら、仄暗ほのぐらい石の階段を博物館の二階へ登っていった。階段を登りつめた左にあるのは爬虫類はちゅうるい標本室ひょうほんしつである。
早春 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
家に居ては、男を寄せず、耳に男の声も聞かず、男の目を避けて、仄暗ほのぐらい女部屋に起き臥ししている人である。世間の事は、何一つ聞き知りも、見知りもせぬように、おうしたてられて来た。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
どこも彼処かしこも夢のやうに静かで、そして仄暗ほのぐらかつた。
町の踊り場 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
先には、まだ仄暗ほのぐらいうちに、二千余騎の将士が、白い息を吐いて、ここを発し、今また、正行以下が最後の別れを告げて立たんとするのであった。
日本名婦伝:大楠公夫人 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
まだ仄暗ほのぐらい宿場町を歩きだしてから、彼はなんども足を停めて戻ろうとした、ひとめ会って来ればよかった、懐かしいような、温たかく惹かれる想いが心に残って
金五十両 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ぐったりとした四肢ししの疲れのように田舎路は仄暗ほのぐらくなってゆくのだが、ふと眼を藁葺屋根わらぶきやねの上にやると、大きなえのきの梢が一ところ真昼のように明るい光線をたたえている。
苦しく美しき夏 (新字新仮名) / 原民喜(著)
もしニコライの半分でも、リヨフに他人の感情を思ひやる事が出来たなら、——トウルゲネフは長い間、春の夜の更けるのも知らないやうに、この仄暗ほのぐらい龕の中の像へ、寂しさうな眼を注いでゐた。
山鴫 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
奥の部屋へ今、行燈あんどんを運んで行った花世は、ふと耳を澄ましながら、仄暗ほのぐらい隅の机に向っている若い侍へ、ひとみを向けた。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
持って戻った骨壺は床の間の仏壇のわきに置かれた。さきほどまで床の間にはまだ明るい光線が流れていたのだが、いつの間にかそのあたりも仄暗ほのぐらくなっていた。外では雨が降りしきっていた。
死のなかの風景 (新字新仮名) / 原民喜(著)
寺の境内にある高いかやの木のてっぺんに誰か人がかじりついていた、まだ足もとは仄暗ほのぐらかったがこずえのあたりは明るいので、すぐにそれが俊恵だということがわかった、農夫はもういちどびっくりして
荒法師 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)