館主たてぬし)” の例文
柴田郡船岡で四千百八十石の館主たてぬしかしらぬが、伊達の家臣ということではきさまと同格だぞ、なんのためにそう自分を卑下するんだ
「さよう、桃生郡ものおごおり小野の館主たてぬし、伊東新左衛門の義理の弟だ、正確にいえば新左衛門の妻がおれの姉というわけさ、わかったかね」
片倉小十郎(景長)は、刈田かった郡白石城、一万七千石あまりの館主たてぬしで、家格は「一家」に属し、小石川堀普請の奉行を勤めている。
また分封とは所領の内から適当な高を分けて、それに相当した家来を持って、生涯独立の館主たてぬしとなることだと説明した。
菊千代抄 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
そして亘理わたり郡亘理の館主たてぬしで、故政宗の第九子に当る安房宗実あわむねざねの二男、刑部ぎょうぶ宗定がよろしかろう、という案を出して来た。
彼は黒川郡吉岡、六千石の館主たてぬしで、そこは仙台領のうちもっとも肥沃ひよくの地であり、したがって勝手向きも豊かであった。
黒川郡吉岡、六千石の館主たてぬしであり、かつては江戸で筆頭国老を勤めたこともあるが、いまはただ因業な、小金持の隠居というふうにしかみえなかった。
……八千石の館主たてぬしではあるが任官しないので、公式には最小限の義務しかなく、家臣も江戸と中山の領地を合わせて、せいぜい四十人を出入りするくらいのものだった。
菊千代抄 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「おまえ」とやがて七十郎が訊いた、「船岡だとすると、館主たてぬしの原田を知っているか」
「貴方さまもですか」と一玄が訊き返した、「船岡の館主たてぬしである、原田の殿もですか」
原田は古くから宿老しゅくろうの家柄であり、伊達家では一、二の臣といわれて来た。政宗が仙台に移ったとき、原田家も柴田郡船岡へ替り、以来、百年ちかいあいだ、館主たてぬしとして船岡を領していた。
「船岡の館主たてぬしで、原田甲斐宗輔むねすけという方です、いつか話しましたわ」