村上天皇の御代に宮中の梨壺に学者が集まって、『万葉集』の訓をつけ始めたのが古点、道長頃から平安末期へかけて諸学者が訓をつけたのが次点
“梨壺(昭陽舎)”の解説
昭陽舎(しょうようしゃ)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。女御などが居住した。また、円融天皇が東宮時代に居住したとの記録が残り(『日本紀略』)、その後東宮敦良親王(のちの後朱雀天皇)の頃東宮御所として定着した。
庭に梨が植えられていたところから、梨壺(なしつぼ)ともいう。内裏の北東に位置し、南北二棟がある。(北は昭陽北舎) 麗景殿の東、淑景舎(桐壺)の南。
昭陽舎を賜っていたのが知られる后妃は、
朱雀天皇女御・藤原慶子(藤原実頼女)
村上天皇中宮・藤原安子(藤原師輔女、のち飛香舎に移転)
またこの他、
克明親王(醍醐天皇皇子)
為平親王(村上天皇皇子)
資子内親王(村上天皇皇女)
なども曹司として居住し、資子内親王は天禄3年(972年)に藤花の宴を催した。
また皇太后藤原穏子(醍醐天皇中宮)はここで崩御した。
(出典:Wikipedia)
庭に梨が植えられていたところから、梨壺(なしつぼ)ともいう。内裏の北東に位置し、南北二棟がある。(北は昭陽北舎) 麗景殿の東、淑景舎(桐壺)の南。
昭陽舎を賜っていたのが知られる后妃は、
またこの他、
なども曹司として居住し、資子内親王は天禄3年(972年)に藤花の宴を催した。
また皇太后藤原穏子(醍醐天皇中宮)はここで崩御した。
(出典:Wikipedia)