万治まんじ)” の例文
旧字:萬治
世潮はとうとうと華奢かしゃ淫逸へながれてゆくのを見ながら、承応じょうおう万治まんじ延宝えんぽうなどのあいだは、一般にただ懐疑的であったといえる。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
翁草に興津が殉死じゅんししたのは三斎の三回だとしてある。しかし同時にそれを万治まんじ寛文かんぶんの頃としてあるのを見れば、これは何かの誤でなくてはならない。
万治まんじ三年(一六六〇)は正月から大火があって、湯島から小網町まで焼き払い、二月は人心不安のため将軍日光社参延引を令し、六月には大坂に雷震、火薬庫が爆発し
世上過ってこれを大岡捌おおおかさばきの中に編入しているのは、もとより取るに足らぬけれど、それよりもズッと前、七十余年もさかのぼって万治まんじ三年の頃に備前の太守池田新太郎少将光政いけだしんたろうしょうしょうみつまさの落胤と名乗って
備前天一坊 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
これは万治まんじ二年(一六五九)十月なかばのことである。
日本婦道記:箭竹 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
それが、正保しょうほう慶安けいあん承応じょうおう万治まんじ——元禄というように、世が推移してくるにしたがって、世風も士風もおどろくばかり変って来たのである。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)