“のりつね”のいろいろな漢字の書き方と例文
語句割合
教経50.0%
教經50.0%
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
先ず、知盛、重衡のひきいる三千余騎は山階やましなへ、通盛、教経のりつねら二千余騎は宇治橋を固め、行盛、忠度の一千余騎が淀の守りに当った。
教盛のりもり〕清盛から三番目の弟。——門脇殿かどわきどのというのが通り名。職は中納言。長男通盛みちもりは、鵯越ひよどりごえで戦死。次子能登守教経のりつねがある。年五十七。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いていた平ノ盛俊、能登守教経のりつねなどの平家軍は、この会下山の天然な地形を決して利用せずにはいなかったろうということです。なぜならばですね
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
平軍の教経のりつねは敗れて海上へ逃げたが、同陣の盛俊だの通盛みちもりなどは、名倉池や東尻池の附近でみな戦死している。刈藻川の上流で、まさに会下山と鵯越えの中間といってよい。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
只〻數多き公卿くげ殿上人てんじやうびとの中にて、知盛とももり教經のりつねの二人こそ天晴あつぱれ未來事みらいことある時の大將軍と覺ゆれども、これとても螺鈿らでん細太刀ほそだち風雅ふうがを誇る六波羅上下の武士を如何にするを得べき。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
壇の浦の知盛とももり教經のりつねのやうな心持で大童おほわらはになつて戰つた。
近松半二の死 (旧字旧仮名) / 岡本綺堂(著)