卒然そつぜん)” の例文
ところがこの注意深い母がその折卒然そつぜんと自分に向って、「二郎、ここだけの話だが、いったいおなおの気立は好いのかね悪いのかね」
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それからあたかも卒然そつぜんと天上の黙示もくじでもくだったように、「これはこうでしょう」と呼びかけながら、一気にその個所を解決した。
十円札 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
鬼のごとく立てこもって来たひたぶるな身に——ふと聞えてきた琴の音は、卒然そつぜんと、この中の将士の心に、さまざまな思いをび起させた。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
水草も魚の影も卒然そつぜんと渠の視界から消え去り、急に、もいわれぬ蘭麝らんじゃにおいが漂うてきた。と思うと、見慣れぬ二人の人物がこちらへ進んで来るのを渠は見た。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)
それでS、Hとこゝでつたのをさいわひにわたし手軽てがるにそのことはなしたのであつた。するとS、Hは「危険きけんだな——」といふやうな口吻こうふん卒然そつぜんらしたものであつた。
微笑の渦 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
しかしその刀と並んでいる坤竜丸を眼にするたびに、かれは何よりも先に一時斬って棄てねばならぬわが心中の私情に気がついて、卒然そつぜんとして襟を正し肩を張るのだった。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
この奇妙さがふたたびリゼットへ稼業かぎょうに対しての、冒険の勇気を与えて彼女は毎夜まいよのような流眄ながしめを八方に配り出した。しかも今夜の「新らしい工夫」に気付くと卒然そつぜんと彼女の勇気が倍加ばいかした。
売春婦リゼット (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
夢としか思われなかった海の神の美しい乙女おとめ、それを母とする霊なる童児、如意にょい宝珠ほうじゅ知慧ちえの言葉というような数々の贈り物なども、ただ卒然そつぜんとして人間の空想に生まれたものではなくて
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
武蔵は、いずる植物の本能のように、体のうちから外へ向ってあらわれようとしてまないものに、卒然そつぜんと、筋肉がうずいてくるのを覚えた。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
宗助そうすけこの派出好はでずきおとうとが、其後そのごんな徑路けいろつて、發展はつてんしたかを、氣味きみわる運命うんめい意思いしうかゞ一端いつたんとして、主人しゆじんいてた。主人しゆじん卒然そつぜん
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
よしまた覚えているとしても——自分は卒然そつぜんとして、当時自分たちが先生に浴びせかけた、悪意のある笑い声を思い出すと、結局名乗なのりなぞはあげない方が、はるかに先生を尊敬する所以ゆえんだと思い直した。
毛利先生 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
ひたぶるに凝視みつめてあれば卒然そつぜんとして距離の觀念くなりにけり
和歌でない歌 (旧字旧仮名) / 中島敦(著)
胸中の憤怒を一時に吐いたような玄徳の激色に、ふたりは打たれたように一瞬沈黙していたが、そのうちに孔明が卒然そつぜんおもてをおおってきかなしんだ。
三国志:09 図南の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
じつきみはなしたい事があるんだが」と代助はついに云ひした。すると、平岡は急に様子を変へて、落ちかないを代助のうへそゝいだが、卒然そつぜんとして
それから (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
宗仁の書面は彼の指にほぐれた。極めて短文であり、また非常な走り書である。——が、一読卒然そつぜんとして、秀吉のえりもとの毛は、燈火にそそけ立っていた。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
息が切れたから、立ち留まって仰向くと、火のがもう頭の上を通る。しもを置く空の澄み切って深い中に、数を尽くして飛んで来ては卒然そつぜんと消えてしまう。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
宋江はそうした風景をながめると、また卒然そつぜんと、あれきり絶えている家郷の老父を思い出して、つい涙をたれた。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
御米およね卒然そつぜんなにともれない恐怖きようふねんおそはれたごとくにがつたが、ほとんど器械的きかいてきに、戸棚とだなから夜具蒲團やぐふとんして、をつとどほとこはじめた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
はじめ、変を知ったとき、城中の重臣は、卒然そつぜんと、足もとを揺すられたような驚愕きょうがくにおそわれたが、家康のつぶやきと、落着きすました白湯の呑み方を見て
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
運命は卒然そつぜんとしてこの二人を一堂のうちに会したるのみにて、その他には何事をも語らぬ。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
しかし、われながらその不出来なのをたんじて、その夜、床に入ってからも種々工夫をらしていたが、卒然そつぜん悟るところがあって、起き出でてまた、描き出したということである。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
私は彼の様子を見てようやく安心しました。すると彼は卒然そつぜん「覚悟?」と聞きました。そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、——覚悟ならない事もない」と付け加えました。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
長じて、ものまなびし始めてからでも、たれも母を、汚ない女とは、教えもしなかった。それが、卒然そつぜんとして、一個の、みだらな肉塊でしかなかったと分かったとき、清盛は、腹が立った。
宗助そうすけはじめてその視線しせんせつしたときは、暗中あんちゆう卒然そつぜんとして白刄はくじんおもひがあつた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
ところがいよいよ夫として朝夕さいと顔を合せてみると、私の果敢はかない希望は手厳しい現実のためにもろくも破壊されてしまいました。私は妻と顔を合せているうちに、卒然そつぜんKにおびやかされるのです。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それを考えると、卒然そつぜんと、小次郎に対する愛惜と、尊敬を抱いた。
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)