蕉門しょうもん)” の例文
万葉の短歌や蕉門しょうもんの俳句におけるがごとく人と自然との渾然こんぜんとして融合したものを見いだすことは私にははなはだ困難なように思われるのである。
日本人の自然観 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
蕉門しょうもんの著書といへども十中八、九は誤謬ごびゅうなり。その精神は必ずしも誤謬ならざるも、その字句はその精神を写す能はずして後生こうせいまどいを来す者比々ひひ皆これなり。
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
第二には正風不易しょうふうふえきとまでたたえられた蕉門しょうもんの俳諧が、発句ばかりをこの世に残して、その他は久しからずして振棄てられ、同じ流れを汲むという人々にすら
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
それが即ち「侘び」なのである。この同じ「侘び」は芭蕉にもあり、その蕉門しょうもんの俳句にもある。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
それを御祝儀ごしゅうぎとも苗祝とも名づけて、常例にしていた土地も遠国にはあるが、蕉門しょうもんの人たちの熟知したきょう江戸えど中間の田舎には、近世はもうあまり聞かなかったのである。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
別の言葉で言い現わすならば、笑いを取扱わない蕉門しょうもんの俳諧は一つも無かったとともに、発句ほっくからまず人を笑わせようとするような連俳れんぱいというものも一つだって無いのである。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)