岩倉具視いわくらともみ)” の例文
当時、伊藤は、岩倉具視いわくらともみにあてて、つぎのような手紙を送っている。原文は候文であるが、今のことばに訳する。(註五)
ところが京都方にも、公武合体の意見をいだいた岩倉具視いわくらともみ久我建通くがたてみち千種有文ちぐさありぶみ富小路敬直とみのこうじひろなおなぞの有力な人たちがあって、この人たちが堀河ほりかわ典侍てんじを動かした。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
岩倉具視いわくらともみ公の存生ぞんじょう中には、公が能楽の大保護者として立たれたるがために、一旦衰へたる能楽に花が咲いて一時はやや盛んならんとする傾きを示したにかかはらず
病牀六尺 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
そこの石畳は一つ一つが踏みへらされて古い砥石といしのように彎曲わんきょくしていた。時計のすぐ下には東北御巡遊の節、岩倉具視いわくらともみが書いたという木の額が古ぼけたままかかっているのだ。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
おもうに弁事は今日の官省における局長あるいは課長に類するものであろう。太政官と行政官との新に制定せられた時、始めてこれが輔相に任ぜられたものは三条実美さんじょうさねとみ岩倉具視いわくらともみの二卿である。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
中山忠能なかやまただよし正親町實愛おおぎまちさねなる徳大寺實則とくだいじさねのり岩倉具視いわくらともみ徳川慶勝とくがわよしかつ松平慶永まつだいらよしかげ島津義久しまづよしひさ山内容堂やまのうちようどう西郷隆盛さいごうたかもり大久保利通おおくぼとしみち後藤象二郎ごとうしょうじろう福岡孝悌ふくおかこうてい、これらの人々が参会した。十二月八日のことであった。
大捕物仙人壺 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
岩倉具視いわくらともみは源氏であつたが、その岩倉家では、明治の末期までは、正月になると、むかしの貧乏を忘れないようにと、一家そろつて、握り飯をたべることにしていたという。
朝廷側の名だたる策士は、岩倉具視いわくらともみであつた。彼は、時代投合者オポチュニストであつて、狡猾の人であつた。さきにも述べたように、彼は、孝明天皇を暗殺して十六歳の明治天皇を立てた。