壬子じんし)” の例文
法師丸の元服は天文てんもん二十一年壬子じんし正月十一日、彼が十六歳の春であった。当時法師丸はなお牡鹿山の城にあって一閑斎いっかんさいの小姓を勤めていたのである。
「医妙院道意日深信士、天明てんめい甲辰こうしん二月二十九日」としてあるのは、抽斎の祖父本皓ほんこうである。「智照院妙道日修信女、寛政四壬子じんし八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻登勢とせである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
通ずることなしというは誤なり。○慶長十四年己酉きゆう七月二十五日、同十九年壬子じんし十月神祖しんそより和蘭オランダ国王へ御復書あり。けだし和蘭歴代治平の日少きを以て、文献徴すべきことなきに由るのみ
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
然るに安永六年丁酉ていゆうに四十、寛政四年壬子じんしに五十五、同九年丁巳ていしに六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十二でなくてはならない。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
嘉永五年壬子じんし 籍を削り、禄をうばわる。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
又此列の最左翼に居る壽阿彌の父「頓譽とんよ淨岸居士、寛政四年壬子じんし八月九日」
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)