“のりみつ”のいろいろな漢字の書き方と例文
語句割合
則光40.0%
宣光20.0%
範光20.0%
範満20.0%
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
引留ひきとめ其金にて不足も有ば濱町の堀部彌兵衞片岡源吾右衞門にて廿卅の金は借候べしと申渡し又貴樣の刀は寸延すんのびと見えたり室内のはたらきには不便ふべんなればこれまゐらせんと則光のりみつの二尺五寸有しを
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
毅堂はこの年嘉永壬子の夏六月に至って時習館の教授を辞して江戸に還り、名を宣光のりみつ、字を重光と改めた。通称郁太郎を改めて貞助ていすけとなしたのも恐らくこの時であろう。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
明治二年己巳きし三月七日明治天皇の車駕しゃが京師を発し同月二十八日に東京城に入った。『毅堂丙集』に曰く「三月 上東京ニ幸ス。宣光のりみつ鑾輅らんろニ後ルヽコト十日ニシテ乃京師ヲ発ス。」
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
範光のりみつ・家長のような近臣、雅経・信実などの定家系の人や、鴨長明などが召され、それから和歌所が設けられ、『千五百番歌合』が行われ、『新古今集』の撰が行われ
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
女影おなかげはらでは、岩松経家と渋川刑部の二大将が自害をとげ、小手指こてさしはらでは、今川範満のりみつが討死するし、かさねて府中における大激戦でも、小山秀朝と一族数百人、かばねを並べての