あご)” の例文
すると、巡査は癪にさはつたやうに、「おい、おい」とあごを振つて注意し、——「そら、病院のや、いれとけ、いれとけ」と叱つた。
釜ヶ崎 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
此上甲子きね太郎のあごを取つたところで、大した收獲がありさうもないと見ると、平次は番頭の吉兵衞を呼んで、家中を案内させました。
あの夜逃がしてつかわすみぎり、もしや重罪人であってはならぬと、のちのち迄の見覚えに、奴めのあごに目印の疵をつけておいたのじゃ。
しかし、将軍のごときは、西涼州の地盤と精猛な兵を多く持っているのに、何だって不忠な奸雄にあごで使われて甘んじておらるるのか
三国志:08 望蜀の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かゞみにらくらをしてあごをなでる唐琴屋からことやよ、惣て世間一切の善男子、若し遊んで暮すが御執心ならば、直ちにお宗旨を変へて文学者となれ。
為文学者経 (新字旧仮名) / 内田魯庵三文字屋金平(著)
もどかしくッてたまらないという風に、自分が用のない時は、火鉢ひばちの前にすわって、目を離さず、その長いあごで両親を使いまわしている。
耽溺 (新字新仮名) / 岩野泡鳴(著)
笠の赤い紐が白いあごにくびれ込み、いかにも奇麗な女らしく思わせた、物珍らしいので見物の眼はこの美人鷹匠に吸いよせられている。
美人鷹匠 (新字新仮名) / 大倉燁子(著)
と、制服の外套のえりあごを深くうずめた四十男の消防手がいた。彼は帆村が下駄をはいて上ってきたのに、すこしあきれている風だった。
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
鼻の下からあごまで一続きにノッペラボーになっているのです。そうして口の代りに赤い絵の具で唇の絵が格好よくえがいてあるのでした。
オシャベリ姫 (新字新仮名) / 夢野久作かぐつちみどり(著)
櫛まきお藤は、美しい顔を酒にほてらせて、男のように胡坐の膝へ両手をつっ張ったまま、あごを引いて、帰って行く人を見上げている。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
最もよく「適宜な礼儀」を心得ていたフランス中での男たるコリオリ・デスピヌーズ侯爵、愛嬌あいきょうのあるあごをした好人物アマンドル伯爵
多津吉は、たらいのごとき鉄鉢を片手に、片手を雲に印象いんぞうした、銅像の大きな顔の、でっぷりしたあご真下まっしたに、きっと瞳をげて言った。
クリストフはくちびるをくいしめた。あごが震えていた。泣き出したくなっていた。ゴットフリートは自分でもまごついてるように言い張った。
見ながら、突然彼はその女のあごから喉につづく線を、美しい、とつよく感じた。稲妻のように、その光が、記憶のなかの女の像にふれた。
昼の花火 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
(頼家はあごにて示せば、かつら心得て仮面を箱に納め、すこしくこびを含みて頼家にささぐ。頼家はさらにその顔をじっと視る。)
修禅寺物語 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
きは目に立つ豊満な肉付と、すこし雀斑そばかすのある色の白いくゝりあごの円顔には、いまだに新妻にひづまらしい艶しさが、たつぷり其儘に残されてゐる。
人妻 (新字旧仮名) / 永井荷風永井壮吉(著)
「素敵な指環を穿めているな」新井君があごで指差すので、その留学生の手を見ると、左の薬指にダイヤ入りの素晴しい、指環を穿めていた。
広東葱 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
青侍は、爪であごのひげを抜きながら、ぼんやり往来を眺めている。貝殻のように白く光るのは、大方おおかたさっきの桜の花がこぼれたのであろう。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
日はそのうすい手のひらのばちだこのある小指の肉を傘の紙ほどに赤く透して、暗くかげっている顔が日のあたっているあごの先よりも一層白い。
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
鼻は明らかに凝固した水滴または鐘乳石である。あごはより大きい垂れさがりで、顔の各部が合流してぶらさがったものである。
巴旦杏型はたんきょうがたのぱっちりした眼はどこか私が子供の時に死んだ母の眼に似ていて、頬からあごにかけた線に、何とも云えぬ素朴な優しみがあります。
凍るアラベスク (新字新仮名) / 妹尾アキ夫(著)
彼女はひざの上に両肘りょうひじもたせて、あごを支えながらじいっと、湖へひとみを投じています。彼女に膝を並べて、私も言葉もなく、湖をながめていました。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
黒羅紗くろらしゃの立派なジャンパーを腰のところで締め、綺麗きれい剃刀かみそりのあたったあごを光らせながら、清二は忙しげに正三の部屋の入口に立ちはだかった。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
お婆さんは布団の中から、痩せた青筋のふしくれだった大きな手を出したが、手はなかなか伸びそうもない。手よりも先に、あごの方が出て行った。
蜜柑 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
夜は寝床にうずくまってあごを膝へ押しつけ、眼をかっと開いて、物音に耳を澄まし、大きく十字を切りながら間断ひっきりなしに
老嬢と猫 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
「雪中梅」はお手の物で本職以上だが、問題は中幕の「十種香」、当時売り込んだ伯知の濡衣、自慢の長髯を羽二重で包んだ二重あごの愛らしさ。
明治世相百話 (新字新仮名) / 山本笑月(著)
ゆる荒熊あらくまと一しょにもつながれう、はかなかにも幽閉おしこめられう、から/\と骸骨がいこつむさくさ向脛むかはぎばんだあごのない髑髏しゃれかうべ夜々よる/\おほかぶさらうと。
すると向うにゐたAが真打しんうちと云つたやうな格で、更に判決でも下すやうに、あごの先を突き出し乍ら鋭くかう云ひ出した。
良友悪友 (新字旧仮名) / 久米正雄(著)
顔の棚下しをしてはなはだ相済まない次第だが——人も知つてゐる通り口が大きくあごが突つ張つて、俗にいふえらの出た顔で、あんぐり口をいたら
一運チイフあごで為吉を指した。ボストンはちらっと彼を見遣って黙って先に立った。為吉は一歩室外そとへ踏み出そうとすると
上海された男 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
そして彼はまた意味ありげに前の方をあごでしゃくって見せた。その小路こうじを行けば丸山へ出るということをふうするように。
あごで奥をゆびさして手枕をするのは何のことか解らない。わらでたばねた髪のほつれは、かき上げてもすぐまた顔に垂れ下る。
千鳥 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
「そんなこったろうと思ったよ。」三浦はおもむろにあごを撫で、「いかに何でもあんまり音無しすぎると思ったよ。」
春泥 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
あごを、肩を、乳房を、全裸体を撫でまわしてみて、彼女の美を意識しようとつとめたことが、幾度あったか知れぬ。
二人の盲人 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
「ふーむ」と言った彼はあごのあたりを撫で廻して、いっそうまた気むずかしく考えこんだ風であったが、やがて顔をあげて、笹川に向って言いだした。
遁走 (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
「それがええ」それから物をあざけるような眼つきをして、港の方へあごをやって、「権兵衛、池が掘れかけたようじゃが、彼処あすここいを飼うか、ふなを飼うか」
海神に祈る (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
鳥羽伏見とばふしみの乱に、慶喜が政治に失敗してから、各方面の総督として利用され、薩・長・土などにあごで使われるままに、その一身をゆだねたのであった。
この返事をすると、奥さんはあごで知れない程の会釈をして、足を早めて階段を登ってしまって、一人で左へ行った。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
懷手をして圓いあごを襟に埋めて俯いてゐるお定は、郷里を逃げ出して以來の事を、それからそれと胸に數へてゐた。
天鵞絨 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
そこには、殿上人を召使いのごとくあごで使う習慣のついた、そのくせ満面のえみを浮べる入道夫婦がいたのである。
あっちあっちってまだ一間か一間半ばかしも行っていない方をあごで指し『間抜けだねえ。お前、あれが分らないか』と言うんです、それが先の連合つれあいなの。
雪の日 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
とこの時浩二は男性に対する挑戦に応じて、中姉ちゅうねえさんの方へあごを二三度突き出した。これは末っ子で尋常一年だ。
親鳥子鳥 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
メアリゴウルドの目鼻立や特徴はすべてそのままで、可愛らしい小さなえくぼさえ、その金色のあごに残っていました。
まだとしも若し、気もさかんであるから、高い足場へ上って、差図さしずをしたり、竹と丸太を色々に用いてあごなどの丸味や、胸などのふくらみを拵えておりますと
あごで先方をしやくつてから『向ふの棚にライターがあるから、君こゝへ持つて来給へ—』と命令的に言つた。
小熊秀雄全集-15:小説 (新字旧仮名) / 小熊秀雄(著)
白い仕事着を着たあご鬚のある、年若としわかな、面長おもながな顔の弟子らしい人と男達の話して居る間に、自分は真中まんなかに置かれた出来上らない大きい女の石膏せきかう像を見て居た。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
父と子とはその鉄橋の中ほどで立ちどまると、下手しもて向きの白い欄干らんかんに寄り添って行った。隆太郎りゅうたろうは一所懸命に爪立ち爪立ちした。あごが欄干の上に届かないのだ。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
十数人の男女があごをそろえて見上げたその水色石造建築物の外観は極めて平凡で、歩道に向った下の窓の奥に「下宿パンシオン・レオノヴォイ」という札が出してあった。
赤い貨車 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
三四年まえに汐田の紹介でいちど逢ったことがあるけれども、あれから見ると顔の色がたいへん白くなって、あごのあたりもふっくりとふとっているのであった。
列車 (新字新仮名) / 太宰治(著)
日曜の朝なんか遊びに行くと、よく枕の上にあごをのせて床の中で新聞を読んだりしていたものだった。あの連中の生活ときたら実際羨しい位呑気なものだった。
先生を囲る話 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)