庫裡くり)” の例文
お小姓は静かに立上って庫裡くりの方に退くと、死ぬほど恥ずかしがったお由利は、かれたもののように起って、その後を追うのです。
銭形平次捕物控:239 群盗 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
「今夜はお二人を此処へ泊める」と代二郎は彼に囁いた、「——庫裡くりへはそう云ってあるからね、私たちはこれで帰らせてもらうよ」
初夜 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「其処へ持つて来て置いたで、ちよつくらお経を読んで呉れなせい。」父親らしい男は庫裡くりの入口に顔を入れてのんきさうに言つた。
ある僧の奇蹟 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
お松がこうして臥竜梅の下から圧迫され、ハミ出されたのと反対に、庫裡くりからひょっこりと身を現わしたのは田山白雲でありました。
大菩薩峠:34 白雲の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
と、徳利をつかんだまま、よろよろと、立ちあがると、ガタピシとぶすまをあけ立てして、庫裡くりの戸棚の中の、ぶたね上げる。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
長岡佐渡が笑いながら寝所へはいってゆく姿へ、住職は、再三再四、低頭平身していたが、やがて、追いかけるように、庫裡くりへ来て
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
庫裡くり音信おとずれて、お墓経をと頼むと、気軽に取次がれた住職が、納所なっしょとも小僧ともいわず、すぐに下駄ばきで卵塔場へ出向わるる。
夫人利生記 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
しかしぐっと胆力たんりょくをすえて、本堂の中へ入ってみた。そして中の様子をくまなく調しらべた。それから廊下ろうかつづきの庫裡くりの方へ入って行った。
鬼退治 (新字新仮名) / 下村千秋(著)
本堂や経閣の戸がくさって倒れたままになっており、方丈から庫裡くりにかけめぐらされた廻廊も朽ちた木目に雨気を含んで苔むしている。
自分の法衣ころもをずたずたに引き裂いて庫裡くり床下ゆかしたへ投げ込んで、無断で寺を飛び出した。興津に父を頼って来たのはその時であった。
女は早速庫裡くりへ行って、誰かに子供の消息しょうそくを尋ねたいと思いました。しかし説教がすまない内は、勿論和尚にも会われますまい。
捨児 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
春雨の降って居る門内の白い土を踏んでその玄関に立った時私はあたかも寺の庫裡くりにも這入ったような清い冷たい感じを受けた。
漱石氏と私 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
老人は、ちょっと首を曲げたようであったが、すぐに庫裡くりの方へと立ち去った。私達はその後から、ぞろぞろとついて行った。
再度生老人 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
本堂にも庫裡くりにも人影はない。自分は案内もなしに、づかづかと墓所へ入つて行つた。す枯れた雑草に、靴先は濡れて光つた。
現代詩 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
庫裡くりの方では、何か事があるらしく、納所坊主なつしよばうずや寺男なぞが忙しさうにして働いてゐるのを、横目に見つゝ、二人は石段のくちに立つた。
東光院 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
折から通りかかつた寺院の庫裡くりへとびこんで、難渋した旅の者だが一飯の喜捨をめぐんでくれと泣声をはりあげて叫んだことがあつたりした。
狼園 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
万法蔵院の香殿・講堂・塔婆・楼閣・山門・僧房・庫裡くりことごとく金に、朱に、青に、昼よりいちじるく見え、自ら光りを発して居た。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
住持もいるのかいないのか、いつ来て見てもこのあたりは森閑として庫裡くりに人影一つ動いたこともない寂然さであった。
逗子物語 (新字新仮名) / 橘外男(著)
寺へ来て、本堂と庫裡くりの間を何かしらまご/\してゐるだけでも彼に慰めであらうなら、それでよい。老師はいつも和やかな顔を彼に向けてゐた。
老主の一時期 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
唯円 庫裡くりの裏のあの公孫樹いちょうの葉が散って、散って、いくら掃いても限りがないって、庭男のこぼす時が来るのですね。
出家とその弟子 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
善慶寺の庫裡くりの広間を三間打ち抜いて四十人ほどの人々がぜんに就いたところは、そんなに寒々としたものでもなかった。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
すると、男はたちまち姿が見えなくなった。僧正はおかしいと思いながら周囲を見たが、どこにもいない。それで、庫裡くりの方へ行って、人を呼んだ。
大力物語 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
これは討手の群れが門外で騒いだとき、内陣からも、庫裡くりからも、何事が起ったかと、怪しんで出て来たのである。
山椒大夫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
庫裡くりの内部を造りかえた間に合せの役所であった。日向にれていた彼の眼に、その瞬間あたりはまッ暗であった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
庫裡くりの煤で光つてゐる梁や柱や板の間に、煤竹を編み込んだ大衝立があつたがこれも古色愛すべきものであつた。
京洛日記 (旧字旧仮名) / 室生犀星(著)
千呆禅師が天和二年に長崎の饑饉救済をしたという大釜の前に立って居ると、庫裡くりからひどく仇っぽさのある細君が吾妻下駄をからころ鳴して出て来た。
長崎の一瞥 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
往来の上下をめまわすと、屋敷町の片側通りだ、御府内といえ、一つ二つ横町へそれたばかりなのにもうこの静けさ、庫裡くりのように寂寞ひっそりとしたなかに
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
いつも塾生たちがつくまえから、庫裡くり玄関げんかんにちょこなんとすわりこみ、いかにも待ちどおしそうにしていた。そしていよいよ塾生たちの顔が見えると
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
花御堂はなみどう灌仏会かんぶつえ、お釈迦しゃかさまも裸になって、善男善女が浮かれだして、赤い信女がこっそり寺の庫裡くりへ消えて
五山盛時の写本の字を想わしめるすこし右あがりの速い書体で、庫裡くりの障子までことごとくその反古ほごであった。
雪国の春 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
しかし修道院の中へはいっても、本堂や塔や庫裡くりの建物——それもきわめて平凡なものであった——のほかには、彼の観察眼に映ずるものは何一つなかった。
にわかに裏山のあたりでただならずわめののしる声が起ったかと思ううち、たちま庫裡くりのあたりから火があがりました。
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
その小家のあたりから、道は両側とも竹垣にはさまれながら、真直まっすぐに寺の庫裡くりの方に通じているらしかった。
三つの挿話 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
「それから、私たちは、庫裡くりや本堂の各部屋を捜しましたが、どこもかも森閑しんかんとして、鼠一匹おりませんでした。犯人は寺男を絞殺して逃げたものと見えます」
墓地の殺人 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
併し代々だい/″\学者で法談はふだん上手じやうず和上わじやうが来て住職に成り、とし何度なんどか諸国を巡回して、法談でめた布施ふせを持帰つては、其れで生活くらしを立て、御堂みだう庫裡くりの普請をもる。
蓬生 (新字旧仮名) / 与謝野寛(著)
茶室、学徒所化しよけの居るべきところ、庫裡くり、浴室、玄関まで、或は荘厳を尽し或は堅固を極め、或は清らかに或はびて各〻其宜しきに適ひ、結構少しも申し分なし。
五重塔 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
自分も用心のため、すぐ彼の傍へ行ってひんならった。それから三人前後して濡れた石をみながら典座寮てんぞりょうと書いた懸札かけふだの眼につく庫裡くりから案内をうて座敷へ上った。
初秋の一日 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
で一等室は化身けしんのラマ達の修学に来て居られる者が住むのです。私は二等室をもらいましたが、なかなか立派なもので部屋一つに庫裡くり一つ、それから物置が一つある。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
こうして長老が女の童の手を引き、庫裡くりの方へ帰って行った後は、しばらく寂然と人気がなかった。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
六つ七つの時祖母につれられてきた時分と、庫裡くりの様子などほとんど変っていないように見えた。
父の葬式 (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
燻製くんせいの魚のような香いと、燃えさしの薪の煙とが、寺の庫裡くりのようにがらんとくろずんだ広間と土間とにこもって、それが彼の頭の中へまでも浸み透ってくるようだった。
親子 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
で、ぢき二つの袋はいつぱいになり、そのつど菊次さんは、お寺のお庫裡くり米櫃こめびつまで、お米をあけにいかねばなりませんでした。日暮までに菊次さんは、五へん通ひました。
百姓の足、坊さんの足 (新字旧仮名) / 新美南吉(著)
という寺男の声を聞いて、勝手を知った半蔵は庫裡くりの囲炉裏ばたの方から上がった。彼は松雲が禅僧らしい服装みなりでわざわざその囲炉裏ばたまで出て迎えてくれるのにもあった。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
宿房の庫裡くりめいたところへ行って、茨木の名をいうと、奥から茨木が小走りに出てきた。
雲の小径 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
槖駝師うえきや剪裁せんさいの手を尽した小庭を通って、庫裡くりに行く。誰も居ない。尾の少しけたとしりた木魚と小槌こづちが掛けてある。二つ三つたゝいたが、一向出て来ぬ。四つ五つれよとたたく。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
よく晴れた奈良の秋の日、二月堂の脇の庫裡くりめいた建物の中で、著者はひっくり返ってプルウストを読んでいる。突如「失われし時を求めて」という言葉に、非常な気味悪さを感ずる。
千年の時差 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
彼はその翌日から庫裡くりへ顔を出した。そして雲水たちの食事の世話を焼きだした。
艸木虫魚 (新字新仮名) / 薄田泣菫(著)
最近、その亀は、下寺町の心光寺の境内に居候いそうろうしていたのだが、その心光寺の本堂が三、四年前に炎上してしまった。しかし不思議にもその亀のいた庫裡くりは幸いにして焼け残ったのである。
めでたき風景 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
で、如何いかにもその声が似ているから、妙善は「まあおはいんなさい。」と言ったんですね。そうすると、その人は入って来たんです。白装束のまんま、死んだ時の姿で、そうして庫裡くりあがって来た。
□本居士 (新字新仮名) / 本田親二(著)
門のうちに入るまで娘は絶えず身のまはりに気をくばりてゐたりしが初めて心おちつきたるさまになりてひしとわが身に寄添ひて手をとり、そのまま案内もはず勝手口かってぐちを廻りて庫裡くりの裏手に出づ。
葡萄棚 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)