可懐なつかし)” の例文
旧字:可懷
千束の寮のやみの、おぼろの、そぼそぼとふる小雨の夜、狐の声もしみじみと可懐なつかしい折から、「伊作、伊作」と女ので、とぼそで呼ぶ。
開扉一妖帖 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
いや、それは段々お世話にもなつた、かたじけないと思うた事も幾度いくたびか知れん、その媛友レディフレンドに何年ぶりかで逢うたのぢやから、僕も実に可懐なつかしう思ひました
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
「いっしょにあるいたのも久しぶりだね。今年でちょうど五年目になるかい」とさも可懐なつかしげに話しかける。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
文箱ふばこの中から出ましたのは、艶書ふみの束です。奥様は可懐なつかしそうにそれをやわらかな頬にりあてて、一々ひろげて読返しました。中には草花の色もめずに押されたのが入れてある。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
山伏は大跨おおまたで、やがてふもとへ着いた時分、と、足許あしもとの杉のこずえにかかった一片ひとひらの雲を透かして、里可懐なつかしく麓を望んだ……時であった。
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
今は可懐なつかしき顔を見る能はざる失望に加ふるに、この不平にひて、しかも言解く者のあらざれば、彼のいかりは野火の飽くこと知らでくやうなり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
移り気も一概には退けられない。不義する位のものは、何処かに人の心を引く可懐なつかしみもある。
刺繍 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
さびしい一室ひとまに、ひとり革鞄かばんにらめくらをした沢は、しきり音訪おとなふ、さっ……颯と云ふ秋風あきかぜそぞ可懐なつかしさに、窓をける、とひややかな峰がひたいを圧した。
貴婦人 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
る所は陰風常にめぐりて白日を見ず、行けども行けども無明むみよう長夜ちようや今に到るまで一千四百六十日、へども可懐なつかしき友のおもてを知らず、まじはれどもかつなさけみつより甘きを知らず
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
忘れはしない、半輪の五日の月が黒雲を下りるように、荘厳なる銀杏の枝に、梢さがりにかかったのが、可懐なつかしい亡き母の乳房の輪線の面影した。
売色鴨南蛮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
実に可懐なつかしかつたのです、顔を見ると手をつて、たゞち旧交きふこうあたゝめられるとわけで、其頃そのころ山田やまだわたし猶且やはり第二中学時代とかはらずしばんでましたから、往復わうふくともに手をたづさへて
硯友社の沿革 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
惚れたと云うのが不躾ぶしつけであるなら、可懐なつかしいんです、ゆかしいんだ、したわしいんです。……私に一人の姉がある。姉は人のめかけだった。
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ただあのちんひきというのだけは形もしなもなくもがな。紙雛かみひいなしまの雛、豆雛まめひいな、いちもんびなと数うるさえ、しおらしく可懐なつかしい。
雛がたり (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
分けて、盂蘭盆うらぼんのその月は、墓詣はかもうでの田舎道、寺つづきの草垣に、線香を片手に、このスズメの蝋燭、ごんごんごまを摘んだ思出の可懐なつかしさがある。
二、三羽――十二、三羽 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
みちみち可懐なつかし白山はくさんにわかれ、日野ひのみねに迎えられ、やがて、越前の御嶽みたけ山懐やまふところかれた事はいうまでもなかろう。——武生は昔の府中ふちゅうである。
栃の実 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
可懐なつかしいわ、若旦那、盲人の悲しさ顔は見えぬ。触らせて下され、つかまらせて下され、一撫ひとなで、撫でさせて下され。)
歌行灯 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
嫋娜なよやかに出されたので、ついその、のばせばとどく、手を取られる。その手が消えたそうに我を忘れて、可懐なつかしかおりに包まれた。
沼夫人 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
……ところが、その後祖母おばあさんの亡くなった時と、妹が婚礼をした時ぐらいなもので、可懐なつかしい姉は、毎晩夢に見るばかり。……私には逢ってくれない。
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
可懐なつかしいその姿を見るのも、またこの旅の一興にかぞえたのであったから——それを思出してうかがったが……今日は見えぬ。
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
何ですか、可懐なつかしくって、身に染みてならないのに、少々仔細しさいが有りましてね、もうその方ともこれっきり、お目に掛られないかも知れなくなったの。
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
人に狩り取られて、親がないか、夫がないか、みなしご孀婦やもめ、あわれなのが、そことも分かず彷徨さまよって来たのであろう。人可懐なつかしげにも見えて近々と寄って来る。
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
騎馬の将軍というより、毛皮の外套の紳士というより、遠く消息の断えた人には、その僧形そうぎょう可懐なつかしい。
菊あわせ (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
青苔あおごけ緑青ろくしょうがぶくぶく禿げた、湿ったのりの香のぷんとする、山の書割の立て掛けてある暗い処へ凭懸よっかかって、ああ、さすがにここも都だ、としきりに可懐なつかしじった。
南地心中 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
うれしさ、おん可懐なつかしさを存ずるにつけて……夜汽車の和尚の、へやをぐるりと廻った姿も、同じ日の事なれば、令嬢おあねえさまの、袖口から、いや、その……あの、絵図面の中から
白金之絵図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
近常さんは、はッと涙をお流しなすったそうですが、もうただ悲しいばかりの涙じゃアありません。可懐なつかしい、恋しい、嬉しい、それに強さ、勇ましさもまじったのです。
と、一年越、十年ととせも恋しく百年ももとせ可懐なつかしい声をかけて、看護婦のかたわらをすっと抜けて真直まっすぐに入ったが
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
やがて国許くにもとへ立帰る侍が、大路の棟の鬼瓦をながめて、故郷さとに残いて、月日を過ごいた、女房の顔を思出おもいいで、たえて久しい可懐なつかしさに、あの鬼瓦がその顔に瓜二つじゃと申しての
白金之絵図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
梓が上京して後東京の地において可懐なつかしいのは湯島であった。湯島もその見晴みはらしの鉄の欄干にって、升形の家が取囲んでいる天神下の一かくながめるのが最も多く可懐しかった。
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
と荒唐無稽に過ぎるようですが、真実まったくで、母可懐なつかしく、妹恋しく、唯心もそら憧憬あこがれて、ゆかりある女と言えば、日とも月とも思う年頃では、全くりかねなかったのでございます。
甲乙 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
伏屋ふせやかどの花も、幽霊のよろいらしく、背戸の井戸の山吹も、美女たおやめの名の可懐なつかしい。
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
芋莄ずいきなびく様子から、枝豆の実る処、ちと稗蒔ひえまき染みた考えで、深山大沢しんざんだいたくでない処は卑怯ひきょうだけれど、くじらより小鮒こぶなです、白鷺しらさぎうずらばん鶺鴒せきれいみんな我々と知己ちかづきのようで、閑古鳥よりは可懐なつかしい。
沼夫人 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
若狭鰈わかさがれい——大すきですが、それが附木つけぎのように凍っています——白子魚乾しらすぼし切干大根きりぼしだいこんの酢、椀はまた白子魚乾に、とろろ昆布の吸もの——しかし、何となく可懐なつかしくって涙ぐまるるようでした
雪霊続記 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
折からにつけ忘れませぬは、亡き師匠、かつは昔勤めました舞台の可懐なつかしさに、あの日、その邸の用も首尾すまいて、芝の公園に参って、もみじ山のあたりを俳徊はいかいいたし、何とも涙に暮れました。
白金之絵図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
湯上りの湯のにおいも可懐なつかしいまで、ほんのり人肌が、くうに来てまつわった。
鷭狩 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
かれ高野山かうやさんせきくものだといつた、年配ねんぱい四十五六しじふごろく柔和にうわな、何等なんらえぬ、可懐なつかしい、おとなしやかな風采とりなりで、羅紗らしや角袖かくそで外套ぐわいたうて、しろのふらんねるの襟巻えりまきめ、土耳古形とるこがたばうかむ
高野聖 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
「ああ、お可懐なつかしい。思うおかたの御病気はきっとそれでなおります。」
薬草取 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「勝手が違ったね、……それでもここが可懐なつかしいや。」
卵塔場の天女 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
小狗のたわむれにも可懐なつかしんだ。幼心おさなごころに返ったのである。
みさごの鮨 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
これですもの、可懐なつかしさはどんなでしょう。
雪霊記事 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
夫人 可懐なつかしい、嬉しいお名、忘れません。
天守物語 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
さて経蔵きょうぞうを見よ。またいやが上に可懐なつかしい。
七宝の柱 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
夫人 私もお可懐なつかしい。——
天守物語 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
梓も可懐なつかしげにうなずいて
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
可懐なつかしさに振返ふりかえると
薬草取 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)