篁村こうそん)” の例文
明治の時代中ある短日月の間、文章と云えば、作に露伴紅葉四迷篁村こうそん緑雨美妙等があって、評に逍遥しょうよう鴎外があるなどと云ったことがある。
鴎外漁史とは誰ぞ (新字新仮名) / 森鴎外(著)
島田、名はかん、自ら元章とあざなしていた。世に知られた宿儒篁村こうそん先生の次男で、われわれとは小学校からの友である。翰は一時神童といわれていた。
梅雨晴 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
当時硯友社と相対峙あいたいじした団体は思軒しけん篁村こうそん、三昧、得知ら一派のいわゆる根岸党であった。
説文会には島田篁村こうそんも時々列席した。篁村は武蔵国大崎おおさき名主なぬし島田重規ちょうきの子である。名は重礼ちょうれい、字は敬甫けいほ、通称は源六郎げんろくろうといった。艮斎、漁村の二家に従学していた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
竹逕の歿した時、家に遺ったのは養父漁村のしょう某氏と竹逕の子女おのおの一人いちにんとである。嗣子繁松しげまつは文久二年生で、家を継いだ時七歳になっていた。竹逕が歿してからは、保は島田篁村こうそんを漢学の師と仰いだ。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
海保漁村のしょうが歿した。三十一年には保が八月三十日に羽嶽の義道館の講師になり、十二月十七日にその評議員になった。脩の長女花が十二月に生れた。島田篁村こうそんが八月二十七日に六十一歳で歿した。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)