幻象イメエジ)” の例文
舞台ではそれゆゑ、刻々の幻象イメエジを、精密に、完全に生かし出さなければ、自然空隙が目立つか、平板に陥り易いといふことになる。
それと同時に、所謂「静劇」なるものの出現は、戯曲の文学的領土を拡大し、演劇的幻象イメエジの神秘な一面を附加するに役立つたのである。
近代劇論 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
要するに、俳優の表現能力が、ある程度まで豊富に発揮されてゐる芝居なら、ただそれだけで、劇作家の新しい幻象イメエジの糧となり得るのである。
劇壇暗黒の弁 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
戯曲を文学として読む場合に、作者の幻象イメエジが、そのまま読者の幻象となり得ることを、戯曲作家と雖も、小説作家と等しく期待してゐるのである。
戯曲及び戯曲作家について (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
舞台的幻象イメエジの描き方を体得させるもので、戯曲の主題、結構、文体を通じて、この感覚の有無強弱が、決定的にその価値を支配するものだからである。
戯曲講座 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
仮に、そこまでは行かなくても、活字を通して、耳と眼に愬へる幻象イメエジの文学は、観念の深化とリズムの調整に、ある「限度リミット」を発見しなければならぬ。
演劇当面の問題 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
優れた戯曲ならば、それ自身に、既に、ある「心理的リズム」をもち、そのリズムの完全な把握によつてのみ、舞台は美しい幻象イメエジの連続となるのである。
単一な幻象イメエジに到達すべきものであり、小説的価値と戯曲的価値とは、微々たる形式の限界を越えて、叡智のあらゆる襞に作用することは想像に難くない。
戯曲及び戯曲作家について (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
作者の努力は、ある障壁にぶつかつて、想像の範囲を拡大し、そこに捉へられた幻象イメエジは異常な閃きと高さを示す。
演劇論の一方向 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
「言葉」の音と意味とが、何れともつかず渾然と同化して、瞬間瞬間の「幻象イメエジ」を繰りひろげ、その幻象が、刻々生命の象徴として視覚的に浮び出るのだ。
劇壇左右展望 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
そして、更に、舞台の幻象イメエジを形づくる要素が、果して、今日まで、一定不変であつたかどうかを考へてみる。
その肉声化によつて生ずる幻象イメエジの絶対的価値を等閑に附したといふ一事は、なんとしても遺憾な次第である。
戯曲の生命と演劇美 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
耳と眼に愬へる一切の幻象イメエジを追ひつつ、そこから、観念の多元的な抑揚を捉へ、心理的に調和と統一ある韻律美を感じ得るやうに「読まれ」ねばならぬことになるのである。
演劇当面の問題 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
今までの新劇は、いはば僕等の幻象イメエジにやつと浮ぶ程度の舞台を見せてゐたのである。俳優の立場からは、そんなことでは駄目なのである。それで芝居が面白くならう筈はない。
耳に聴くところの刻々の幻象イメエジは、韻律的に、舞台の物語を運んで行くのであるが、この韻律は、戯曲の制約が作者の想像と感覚を弾ませつつ生じるので、作品に一定の色調トオン
演劇論の一方向 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
「舞台の制約によつて高められた生命ある幻象イメエジの発展的な律動」と解して差支なからう。
演劇論の一方向 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
舞台の聴覚的幻象イメエジがほぼそれに近く浮ぶといふ自信を得たつもりでゐたのであるが、十年を経た今日、読んで間のない戯曲、例へば、コクトオの「声」や、パニョオルの「マリウス」などが
劇的幻象イメエジの構成に、決定的な基礎を求めてゐることがわかるのである。
劇壇暗黒の弁 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)