宣和せんな)” の例文
が、梁山泊にとって、記念すべきこの重陽ちょうようの会は、決して無意味ではなかった。それは宣和せんな二年九月九日のことで、明ければ
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
美術天子の徽宗皇帝の政和宣和せんな頃、即ち西暦千百十年頃から二十何年頃までの間に出来た北定の方が貴いのである。
骨董 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
それから宣和せんな年間に至るまで年を重ぬること百五十、故宮はいよいよ荒れに荒れて、金鑾殿きんらんでんのうしろから奥へは白昼も立ち入る者がないようになった。立ち入ればとかくに怪異を見るのである。
宣和せんなの徽宗皇帝のときから仕えていた将軍の岳飛がくひが、やはりこの大行山にたてこもって、折々、金の治下となった地方をなやましていると聞いたが、君もその一党かね』
人間山水図巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
宋の宣和せんな年中に、明州昌国しょうこくの人が海あきないに出た。
しかし、絵画、音楽、建築、服飾など一面の文化は、このとき一倍の絢爛けんらんを咲かせた。徽宗自身も、絵筆をもてば、一流の画家であり、宮中の宣和せんな画院には、当代の名匠が集められた。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
『だが、宣和せんなの盛時に生れたら、誰だって、万代ばんだい不易ふえきとおもうじゃないか』
人間山水図巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
宣和せんな二年九月秋
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)