“たきさいてい”の漢字の書き方と例文
語句割合
多紀茝庭100.0%
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
天保壬辰三月の柏軒の日記に、九日に多紀茝庭たきさいていが傷寒論を講ずることを休み、榛軒が上直じやうちよくしたと云つてある。茝庭を丸山に迎へたのであらうか。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
医者に当時十一歳であった多紀茝庭たきさいてい、二歳であった伊沢榛軒しんけんがある。その他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「廿四日。嘔少止。壮熱。午後茝庭診。晩清吉老診。」多紀茝庭たきさいていが来診した。「清吉老」は未だ考へない。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
後嘉永二年に至つて、幕府が躋寿館に命じてこれを覆刻した。そして多紀茝庭たきさいてい等が校定の事に当つた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
抽斎の校勘の業はこの頃着々進陟しんちょくしていたらしい。森枳園が明治十八年に書いた『経籍訪古志』のばつに、緑汀会りょくていかいの事をしるして、三十年前だといってある。緑汀とは多紀茝庭たきさいていが本所緑町の別荘である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
あれは多紀茝庭たきさいていの命じた名だということが、抽斎と森枳園もりきえんとの作った序に見えており、訪古の字面じめんは、『宋史そうし鄭樵ていしょうの伝に、名山めいざん大川たいせんあそび、奇を捜しいにしえを訪い、書を蔵する家にえば、必ず借留しゃくりゅう
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)