あご)” の例文
浦原嬢は強いて此の怪美人の傍へ来るは見識に障ると思ったかあごで松谷嬢を指して「本統に貴女は化けるのがお上手です」と叫んだ
幽霊塔 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
それで暫らく二人の無邪気な会話は途切とぎれたが、着物を畳んでいるお君の手は休まない。米友は両手であごを押えて下を向いていたが
彼の頭には願仁坊主がんにんぼうずに似た比田の毬栗頭いがぐりあたまが浮いたり沈んだりした。猫のようにあごの詰った姉の息苦しくあえいでいる姿が薄暗く見えた。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
お勢母子ぼしの者の出向いたのち、文三はようやすこ沈着おちついて、徒然つくねんと机のほとり蹲踞うずくまッたまま腕をあごえりに埋めて懊悩おうのうたる物思いに沈んだ。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
陳は小銭こぜにを探りながら、女の指へあごを向けた。そこにはすでに二年前から、延べのきん両端りょうはしかせた、約婚の指環がはまっている。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
彼の大きくくぼんだ眼窩がんかや、その突起したあごや、その影のように暗鬱な顔の色には、道に迷うた者の極度の疲労と饑餓きがの苦痛が現れていた。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
渡辺刑事は、口を結んで黙っている下あごの張った同僚の横顔をチラリと見て軽く舌打をしたが、然し対手あいての気を引き立てるように言った。
支倉事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
父親は脚を重ねたなり、自分の安楽椅子にもたれかかりながら、片手には株式新聞を持ち、片手で頬髯の間のあごを、おもむろになでていた。
道化者 (新字新仮名) / パウル・トーマス・マン(著)
あごだけ見えて顔は見えない。どうかして顔が見たいものだ。あ。下脣したくちびるが見える。右の口角から血が糸のように一筋流れている。
鼠坂 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
客の一人が旅は遠慮もなく、一人のコートの裾を牽き、お光をあごで指し「中々美人だねえ、此処らにゃ惜しいもんじゃないか」
漁師の娘 (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
「井かね、井は直ぐそのうらにあるだよ、それ其処をそう往ってもえゝ、彼方あっちへ廻ってもいかれるだ」辰爺さんがあごでしゃくる。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
額がそげてあごがこけて、おまけに後頭部が飛び出していてなんとも言われない妙な顔であった、どこかロベスピールに似ているような気がした。
自画像 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
「叡山かい、叡山はそれさ」と山本はあごで東北隅に聳えてゐる山を指した。「あれが叡山か」と三藏は感心する。
俳諧師 (旧字旧仮名) / 高浜虚子(著)
待つ間稍々やゝ久しくして主人あるじは扉を排して出で来りぬ、でつぷりふとりたる五十前後の頑丈造ぐわんぢやうづくり、牧師が椅子いすを離れての慇懃いんぎんなる挨拶あいさつを、かろくもあごに受け流しつ
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
同様に眼は色が変り果てております。口はあごが外れたと見えまして開きっ放しになっております。耳は大熱に浮かされて火のように赤く燃え上っております。
鼻の表現 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
阿Qの記憶ではおおかたこれは生れて初めての屈辱といってもいい、王鬍はあごに絡まるひげの欠点で前から阿Qに侮られていたが、阿Qを侮ったことは無かった。
阿Q正伝 (新字新仮名) / 魯迅(著)
お孝が、ふと無意識のうちに、一種の暗示を与えられたように、てのひららしながら片手の指をあごに隠した。
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「なに小林様? 御家老のお長屋はついその左手のお家がそうだ」と、あごをしゃくって教えてくれた。
四十八人目 (新字新仮名) / 森田草平(著)
彼女はあごで差し招くと、供の侍は麻のしでをかけたさかきの枝を白木の三宝に乗せて、うやうやしく捧げ出して来た。玉藻はしずかにその枝を把って、眼をとじて祈り始めた。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
り立てたあごのあたりも青く生き生きとして、平素の金兵衛よりもかえって若々しくなった。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
と、油断のつらを切ッ尖に撫でられたのがたしかに二、三人、あごを押さえてパッと飛び開いた。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
短かく刈り込んだあごひげに、白髪の交じった、年の頃は五十余り、何だかスウィスらしくない男だ、英語も少しは話す、先ず我々の計画を話して置いて、扨て賃金の問題だが
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
湯呑へ入れて店の若衆わかいしに隠して食べて居るから、お母さんお呉れって云ったら、らないと云ってね、広がって居るから縫物しごとを踏んだら突飛して此処こゝを打って、あごへ疵が出来たの
敵討札所の霊験 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
斉明天皇の七年八月に、筑前朝倉山のがけの上にうずくまって、大きな笠を着てあごを手で支えて、天子の御葬儀を俯瞰ふかんしていたという鬼などは、この系統の鬼の中の最も古い一つである。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
私の前に坐つて居る市子の方をあごで指し乍ら、何か密々ひそひそ話し合つて笑つた事、菊池君が盃を持つて立つて来て、西山から声をかけられた時、怎やら私達の所に座りたさうに見えた事
菊池君 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
「この山河大地みな仏性海ぶっしょうかいなり。」山河大地はそのままに「仏性海のかたち」なのである。山河を見るはすなわち仏性を見るのであり、仏性を見るとは驢馬ろばあご、馬の口を見ることである。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
と父は上り段に腰掛け仰向あおむけになって了った。浅七は草鞋わらじの紐を解いて両足をたらいの中へ入れさせた。母はめかけた汁の鍋を炉に吊して火を燃やした。恭三は黙って立膝の上にあごをもたせて居た。
恭三の父 (新字新仮名) / 加能作次郎(著)
十時も過ぎたと思うに蚕籠こかごはまだいくつも洗わない。おとよは思い出したように洗い始める。格好のよい肩に何かしらぬ海老色えびいろたすきをかけ、白地の手拭てぬぐいを日よけにかぶった、あごのあたりの美しさ。
春の潮 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
二十間許り西に離れた木立をあごでしゃくって、跛の鬚男を追立てる。
奥秩父の山旅日記 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
横にあった火鉢を正面に引き寄せて、両手で火鉢の縁を押えて、肩を怒らせた。そしてあごらして斜に僕の方を見た。傍へ来たのを見れば、褐色の八字ひげが少しあるのを、上に向けてねじってある。
花吹雪 (新字新仮名) / 太宰治(著)
年配の男は、向ふを見ながらお喜乃にあごでしやくつた
都会と田園 (新字旧仮名) / 野口雨情(著)
一人は胸を、一人はあごをくだかれて倒れた。
三百両の金をしまって立ち上ろうとする。お松は情けないかおをして、眼にはいっぱいの涙を含んで、小さなあごえりにうずめてうなずきます。
ふすまをあけて、椽側えんがわへ出ると、向う二階の障子しょうじに身をたして、那美さんが立っている。あごえりのなかへうずめて、横顔だけしか見えぬ。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
が、豪傑肌の父親よりも昔の女流歌人だった母親に近い秀才だった。それは又彼の人懐ひとなつこい目や細っそりしたあごにも明らかだった。
玄鶴山房 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
昇はあごでてそれを聴いていたが、お勢が悪たれた一段となると、不意に声を放ッて、大笑に笑ッて、「そいつア痛かッたろう」
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
土肥君は余の同郷、小学校の同窓どうそうである。色の浅黒い、あごの四角な、ねずみの様な可愛いゝ黒い眼をした温厚おんこうな子供であった。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
小さい新聞紙の包を大事そうにかかえて電車を下りると立止って何かまごまごしていたが、薄汚い襟巻えりまきで丁寧に頸からあごを包んでしまうと歩き出した。
まじょりか皿 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
鬢毛びんもうが薄くてひげが濃いので、少女はあごを頭とたのである。優はこの容貌で洋服をけ、時計の金鎖きんぐさり胸前きょうぜんに垂れていた。女主人が立派だといったはずである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
其の上からお紺が口に人の肉を咬えあごへ血を垂らしてソロソロ降りて来ると云う事だ、何分にも薄暗いから、先ず窓の盲戸を推開おしあけたが、錆附いて居て好くは開かぬ。
幽霊塔 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
阿Qのかんがえでは、ほかに格別変ったところもないが、そのあごに絡まるひげは実にすこぶる珍妙なもので見られたざまじゃないと思った。そこで彼はそばへ行って並んで坐った。
阿Q正伝 (新字新仮名) / 魯迅(著)
山霊さんれいに対して、小さな身体からだは、既に茶店の屋根をのぞく、御嶽みたけあごに呑まれていたのであった。
栃の実 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
毛布ケットをおおい、顔には白木綿しろもめんのきれをかけて有之これあり、そのきれの下より見え候口もとあごのあたりいかにも見覚えあるようにて、尋ね申し候えば、これは千々岩中尉と申し候。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
一、本頭蓋骨の頭蓋は中型にして高型、顔面は稍長形、鼻は中型、あごは前反型なりとす。
支倉事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
成程、新聞記者社会には先づ類の無い風采で、極く短く刈り込んだ頭と、真黒に縮れて、あたりまで延びた頬とあごの髭が、皮肉家に見せたら、顔が逆さになつて居るといふかも知れぬ。
菊池君 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
あごをグッと突き出すと同時に、青白い瞳を一パイにき出して私をにらみ付けた。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
色気の有る物にゃア仏様でもかないませんね、女がお参りに来なくっちゃアいけません、何うも鼻筋の通った口元の締ったとこ左團次さだんじに似て、あごの斯う…髪際はえぎわや眼のとこは故人高助たかすけにその儘で
小屋の入口に固まった黒い影は、先登せんとうのフォイツであった、彼は近づくと両手にあごをささえて、身動きもしないでナイン! とたった一言答えたまま、まるで呼吸が無いように黙ってしまった。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
あごくびのくくれもまた同じく推古時代の彫像においては用いられず
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
と、他の郎党へも、鞍の上からあごをすくう。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)