寂然じゃくねん)” の例文
と——二人がことばもなく、寂然じゃくねんと、坐り合って、花世の帰るのを待っていると、二間ほど隔てた奥のへやで、人のせきばらいが聞えた。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
四方を見れば寂然じゃくねんとして深谷しんこくの中にある思い、風もないから木も動かぬ、日の光が、照すのでなくのぞくようにとろりとしている。
大菩薩峠:06 間の山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
聴衆は番組プログラムを読みふけっていた。番組のページが一時にさらさらとめくられる音を、クリストフは耳にした。そしてまた寂然じゃくねんとしてしまった。
お高はいつまでもそこにいたかったが、その寂然じゃくねんとしているのがかえって恐ろしくなって、いそいで、そこにかけてある独木橋まるきばしを渡りかけた。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
振袖姿ふりそですがたのすらりとした女が、音もせず、向う二階の椽側えんがわ寂然じゃくねんとして歩行あるいて行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ただ、周囲には多くの硝子戸棚ガラスとだなが、曇天のつめたい光の中に、古色を帯びた銅版画や浮世絵を寂然じゃくねんと懸け並べていた。
開化の良人 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
払子ほっすのような白い長い顎鬚をはやした、もう八十に手がとどこうという、枯木のように痩せた雲水の僧が、半眼を閉じながら寂然じゃくねんと落葉の上で座禅を組んでいる。
顎十郎捕物帳:01 捨公方 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
けわしい山の中腹をって、月のない空の下を、鳰鳥の輿は揺れて行く。甚五衛門も輿舁ぎも、寂然じゃくねんとして無言である。輿の中なる鳰鳥も死んだかのように無言である。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
其事そのこと彼事かのこと寂然じゃくねんと柱にもたれながら思ううち、まぶた自然とふさぐ時あり/\とお辰の姿、やれまてと手をのばしてすそとらえんとするを、果敢はかなや、幻の空に消えてのこるはうらみばか
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
あとは寂然じゃくねんたる夜の闇で、何の物音もなく、ただ馬の鼻息とともに馬子が呼吸いきづまるような声で
乞食 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
『理ハ寂然じゃくねん不動、すなわチ心ノたい、気ハ感ジテついニ通ズ、即チ心ノ用』……あの世界だ。あのおやじ様は道理にも明るく経綸けいりんもあるよい人だ。ただ惜しいかな名利がてられぬ。
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
忠直卿は、久し振りにこうした静寂の境に身を置くことをよろこんだ。天地は寂然じゃくねんとして静かである。ただ彼が見捨ててきた城中の大広間からは、雑然たる饗宴の叫びが洩れてくる。
忠直卿行状記 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
余りの思いがけなさに、渠は寂然じゃくねんたる春昼をただ一人、花に吸われて消えそうに立った。
瓜の涙 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
半揷はんぞうや、たらいや、首板や、机や、香炉こうろや、屋根裏の場面の再現のために必要な小道具類が揃えられると、気の毒な道阿弥は肩から以下を床下にうずめて、寂然じゃくねんたる一箇の首と化した。
棺の中は空っぽ——と思いきや、昨夜卒中で死んだ主人の孫右衛門が、白い経帷子きょうかたびらを着たまま、入棺した時と少しの変りもなく、差し寄せた灯の中に寂然じゃくねんとして死顔を俯向うつむけているのです。
寂然じゃくねんとして閑居げんごし、林野に安処せり
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
本堂には如来様にょらいさま寂然じゃくねんとしていた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
法衣ころもを着て、孤独の身を寺のうちに寂然じゃくねんと置いていては、口に、在家仏果を説き、在りのままの易行極楽いぎょうごくらくの道を説いても、自身の生活は
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
はりついた当座は、ピクピクとして少しばかり動きましたけれど、そのまま寂然じゃくねんとして、墨汁で点じたもののように、壁にくっついたきりです。
大菩薩峠:27 鈴慕の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
敷石の尽きた所に硝子ガラスの開き戸が左右から寂然じゃくねんとざされて、秋のくるに任すがごとく邸内は物静かである。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
進退去就しんたいきょしゅういっせいに、ツツウと刻みあし! 迫ると見れば停止し、寂然じゃくねんたることさながら仲秋静夜の湖面。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
『理ハ寂然じゃくねん不動、すなわチ心ノたい、気ハ感ジテついニ通ズ、即チ心ノ用』……あの世界だ。あのおやぢ様は道理にも明るく経綸けいりんもあるよい人だ。ただ惜しいかな名利がてられぬ。
雪の宿り (新字旧仮名) / 神西清(著)
ことに彼らはマテイの別墅を好んでいた。それは古代ローマのみさきとも言うべきもので、寂然じゃくねんたるローマ平野の波の末がその足下で消えていた。二人はよくかしの並木道を歩いた。
部屋は再び元の静粛にかえって、緞子の皺は一と筋も揺がず、寂然じゃくねんと垂れ下がって居る。
少年 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
寂然じゃくねんとして人気なく、人家もなければ鶏犬もいない。——広大無辺の死の国である。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
……広い廊下は、霜のようにつめとうして、虚空蔵の森をうけて寂然じゃくねんとしていた。
夫人利生記 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
或時寂心は横川の慧心院えしんいんうた。院は寂然じゃくねんとして人も無いようであった。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
中は、土間二つぼに床が三畳、町印の提灯箱やら、六尺棒、帳簿、世帯道具の類まであって、一人のおやじが寂然じゃくねんと構えている。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
天井の高い、ガランとした田舎家いなかやの、大きな炉のはたに、寂然じゃくねんとして座を占めているのが弁信法師であります。
大菩薩峠:27 鈴慕の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
寂然じゃくねん亜字欄あじらんの下から、蝶々ちょうちょうが二羽寄りつ離れつ舞い上がる。途端とたんにわが部屋のふすまはあいたのである。襖の音に、女は卒然と蝶から眼を余のかたに転じた。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
と言うと、寂然じゃくねんとして風流澄心ふうりゅうちょうしんの感あるが、風流どころか、金山寺屋音松は、生きたこころもない。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
弾くばかりであるしかも春琴は寂然じゃくねんとして一層くちびるを固く閉じ眉根に深く刻んだしわをピクリともさせないかくのごときこと二時間以上に及んだ頃母親のしげ女が寝間着姿で上って来て
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
寂然じゃくねんとした野の中に出た——森の前に控えてるもみの木立にあちらこちらさえぎられてる牧場だった。彼はその中に進んでいった。数歩行くか行かないうちに、地面に身を投げ出して叫んだ。
陶器師は眼をつむり寂然じゃくねんとして控えている。こぼが一筋黄金色に肩の上に斑点はんてんを印し、白い蝶がさっきからそこへ止まって動こうともせず、時々ふるわせる薄い羽根から白い粉が仄かに四方へ散る。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
寂然じゃくねん、いつのまにか、老公は眼をつむっている。眠っているのかと、景助は、酔眼をみはったが、そうでもないらしいと見ると、いちだん声をあげて
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と忘れていた軽い傷痕きずあとがうずきでもするように、忠相は寂然じゃくねんと腕を組んで苦笑をおさえている。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
家は寂然じゃくねんとしていた。ブラウンは夫妻とも外出していた。窓が開いていて、輝かしい空気が笑っていた。クリストフは堪えがたい重荷をおろした心地だった。立ち上がって庭に降りた。
と、二人のてのひらに黄金色をした丸薬が、寂然じゃくねんとして載っていた。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
黒ぐろと、聞きひそまっていた無数の形は、寂然じゃくねんと、うなずいた。清盛は、うなずくはずみに、ポロリと、自分の涙を見た。——ひらかれた盲恋のまぶたから。
この一瞬間の、寂然じゃくねんたるあたりのたたずまいは、さながら久遠くおんへつづくものと思われました。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
穏やかで、日がり渡り、寂然じゃくねんとしている。
そしてさっき光悦や紹由の通った座敷を何気なく覗くと、そこにたった一人、いつの間に戻って来たのか、武蔵が白い灯と顔を並べて、寂然じゃくねんと坐っていた。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
こん夜も、浮いた顔いろでないが——時々、宗矩が、表の部屋で、ただひとり寂然じゃくねんとしている姿など見ると
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そういって寂然じゃくねんと首をたれていたが、やがて首を上げると、発狂したように、牢の外へ向って呶鳴った。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
めずらしくも、そこには酒杯さかずきを絶った高綱の寂然じゃくねんたる瞑想めいそうのすがたがあったのである。——しかし、六日目の朝には、そのすがたもついに城内には見えなかった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
お蔦と二人で無事を楽しんでいるためには、今夜のように、冬の夜を寂然じゃくねんと、細本田のちょんまげをこくりこくり影法師の頭に踊らせているのが至極いいのであった。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この上は、まだ華雲殿の内かもしれぬと、諸侯ノ間、侍者ノ間、石庭せきてい曲廊きょくろうまでを探しあるいた。すると、小御所の控えびさしに、ひとり寂然じゃくねんと坐っている女性があった。
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そこで昌仙しょうせんせんなきこととあきらめたか、呂宋兵衛るそんべえ裾野すそのをでるとすぐ、軍備にはさらにたずさわらず、継子ままこのように、ひとり望楼ぼうろうのいただきへあがって、寂然じゃくねんとたちすくみ
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
枕の上の顔よりも青じろい顔して、清十郎はその側に寂然じゃくねんと坐っていた。自分がにじった花の痛々しい苦悶に対して、自責じせきこうべを垂れたまま、さすがに彼の良心も苦悶しているらしい。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ふと彼がそこを開けると、まだあかりの来ていない広やかな壁と畳の寒々とした中に、寂然じゃくねんと独り——たとえば、一箇の砧青磁きぬたせいじの香炉がそこに在るかの如く——澄んだおもてをしてひたと坐っていた。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)