顕家あきいへ)” の例文
天皇は、新田義貞をして西より、陸奥守むつのかみ北畠顕家あきいへをして東より、鎌倉を挟撃せしめ給うた。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
うへ(後醍醐)にも、御引直衣おんひきなほしにて、椅子いすにつかせ給ひて、御笛を吹かせ給ふ。——宰相ノ中将顕家あきいへ、陵王の入綾いりあやを、いみじう尽してまかづるを、召返して、さきノ関白殿、御衣おんぞとりてかづけ給ふ。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
生きては老躯を以て朝廷に尽くし、その二子顕家あきいへ、顕信を君国に捧げ、死しては、その著述に依つて、皇基を永久に護つてゐる。私は、北畠親房を、日本無双の忠臣だと信じてゐる。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
鎮守府将軍(顕家あきいへ
皇太子恒良つねなが親王、皇子尊良たかなが親王を奉ぜしめて、北陸経営に当らしめ、又陸奥むつの北畠顕家あきいへを西上せしめて、京都の恢復を計り給うたが、顕家は延元三年五月、摂津の石津いしづで戦死し、新田義貞は
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)