紹興しょうこう)” の例文
宋の紹興しょうこう十年、両淮りょうわい地方の兵乱がようやく鎮定したので、兵を避けて江南に渡っていた人びともだんだんに故郷へ立ち戻ることになった。
僕は浙江省せっこうしょう紹興しょうこうに生れ、あの辺は東洋のヴェニスと呼ばれて、近くには有名な西湖もあり、外国の人がたいへん多くやって来て、口々に絶讃するのですが、僕たちから見ると、あの風景には
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
その翌年になって、賊は紹興しょうこう地方で捕われて、逐一ちくいちその罪状を自白したが、かれは案外の小男であった。彼は当夜の顛末についてこう語った。
宋の紹興しょうこう二十四年六月、江州彭沢ほうたくの丞を勤める沈持要ちんじようという人が、官命で臨江へゆく途中、湖口ここう県を去る六十里の化成寺かせいじという寺に泊まった。
しかしここでは『夷堅志』の作者たる洪邁一人について少々申し上げますと、彼はあざな景盧けいろといい、もちろん幼にして学を好み、紹興しょうこうの中年に詞科に挙げられて、左司員外郎さしいんがいろう累進るいしんしました。
そう紹興しょうこう三十二年、劉子昂りゅうしこう和州わしゅうの太守に任ぜられた。