浄人きよめ)” の例文
「今物語」に、或る五位の蔵人が、革堂こうどう窈窕ようちょうたる佳人を見てそれに懸想し、そのあとをつけて行ったところが、一条河原の浄人きよめの小屋に這入ったという話がある。
賤民概説 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
なお漂泊民と莎草との関係を彷彿せしめるものに、自分は今物語の浄人きよめの話を提供したい。今物語は藤原信実の著だとあって、鎌倉時代のものであるが、それにはこうある。
と独りごちて、浄人きよめが家のありけるに入りにけり。男れしもいと憐に、不思議と覚えけり。
浄人きよめとは本来掃除夫の称で、一条河原に小屋住居した所謂河原者すなわち小屋者である。
寺院境内境外の掃除をつかさどったもので、『塵袋』にエタと称した浄人きよめの徒であった。
俗法師考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
賤者の名称が同じ程度の他のものに移り行く事は、もと主鷹司の雑戸なる餌取えとりの名が、エタと訛って浄人きよめ・河原者等にも及び、はては死牛馬取扱業者にのみ限られる様になった例もある。
エタまたはエッタと呼ばれた古えの河原者・浄人きよめの徒と同じ仲間と解せられる。
俗法師考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
かつては浄人きよめ(塵袋)をも、河原者(壒嚢抄)をも、青屋(三好記雍州府志)をも、エタの名を以て呼んでいた事は、「エタと皮多」(三巻六号)の条下にも既に説き及んでおいた事である。
それはただに濫僧ろうそう屠者えとり浄人きよめとのみに限らず、室町時代には井戸掘り・庭作りなどの業にも従事し、その或る者は遊芸を事として、後世俳優を河原者という語の起原をもなしているのである。
もとは浄人きよめ・川原者並びに唱門師の徒をも、エタと呼んだものであった。
俗法師考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)