宝寺たからでら)” の例文
なお後に残って、宝寺たからでらの城下で、療養につとめていた柴田伊賀守勝豊も、ようやく健康に復したので、一日秀吉に暇乞いとまごいをなし
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
和成るや飛ぶが如くに馳せ上って、光秀の虚を山崎宝寺たからでら天王山に衝き、光秀をして三日天下のあわれを喫せしめた。この山崎合戦が、まさに、秀吉の天下取りの戦争であった。
賤ヶ岳合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
かく聞くや秀吉は、猶予ゆうよなく姫路を発した。同夜宝寺たからでら城に着、七日すでに入朝し、翌日は安土に到り、九日、三法師に謁した。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
山頂はかなり高くけわしく、最高二千七百尺はある。別名をこもりの松山ともいい、宝寺たからでらの山ともいう。峨々ががたる岩山で、全山、松の木が多い。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かくて、その年十二月には、予定のとおり、彼は、宝寺たからでら城の旧居を払って、摂津大坂の新たなる大城に移り住んだ。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
このすさまじい「駈落かけおとし」のうちに、宮脇又兵衛(後に長門守ながとのかみ)は馬を用いていた。そして宝寺たからでらのうしろの断崖の上に来てしまったのである。馬は当然、硬直してうごかない。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
徳川家第一の宿将、石川伯耆守数正ほうきのかみかずまさは、家康の旨を帯びて、山崎宝寺たからでら城に秀吉を訪い
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
秀吉はあれ以来、京都へ上って、中央の枢機すうきで大いにうごいている。また、山城の宝寺たからでらの城をも大改築にかかっているなど、勝家の耳には毒のような取り沙汰が、頻々ひんぴん、聞えて来たからであった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)