“じょうのさいぎく”のいろいろな漢字の書き方と例文
三日の後に再びやまと新聞社に電話をかけて
条野採菊翁に聞きあわせると、本葬は見合わせになったらしいという返事であった。
戯作者の
殿りとしては、仮名垣魯文と、後に新聞記者になった
山々亭有人(
条野採菊)に指を屈しなければならない。
わたしは
条野採菊老人からいろいろの教えをうけたが、その以外には
西田菫坡老人からも教えられることが多かった。
その時の勘平は
道行の勘平で、お
軽は福助、伴内は松助であったが、菊五郎は楽屋で
条野採菊翁にこんなことを話したそうである。かれは勘平の顔を真っ白に塗りながら言った。
條野採菊翁に語ったところによると、河原崎座の座主河原崎権之助という人は新狂言が嫌いで、なんでも芝居は古いものに限ると主張しているので
その翌年の二月、
條野採菊翁が
伊井蓉峰君に頼まれて「
茲江戸子」という六幕物を書くことになった。故
榎本武揚子爵の
五稜郭戦争を
主題にしたものである。