こわ)” の例文
あか染みた、こわい無精髭が顔中を覆い包んでいるが、鼻筋の正しい、どこか憔悴やつれたような中にも、りんとした気魄きはくほの見えているのだ。
地虫 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
予ハ糊ノこわイゴワ/\シタ単衣ヲ着セラレルノガ嫌イデアッタガ、寝間着ニハイツモ甘ッタルイ腐リカヽッタヨウナ糊ノ匂イガシタ。
瘋癲老人日記 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
お前が、さも新吉の凄じい権幕におびえたように、神経のこわばった相形そうぎょういて微笑わらいを見せながら、そういって私の部屋に入って来た。
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
ひきつるようにこわばったお豊の顔が、深喜の眼の下で静かにあおざめてゆき、大きくみはった双の眼から、みるみる涙があふれ落ちた。
花も刀も (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
しっぽに一本の針のようなこわい白い毛があった。海石がそれを検べて抜こうとした。豕は体を動かして抜かさなかった。海石が言った。
劉海石 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
彼女は薪をかかえて来て、かまどを焚きつけ、木のようにこわばった自分の顔がだんだん直って、あたまがはっきりしてくるのを感じる。
ねむい (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
この話を傍できいていた川波大尉の顔面がんめんが、急にひきつるようにこわばってきたのに、まるで気がつかないような顔をしていたのだった。
恐しき通夜 (新字新仮名) / 海野十三(著)
「ついては……」と、清高はそこで、重々しく威儀づくったが、ごくとを呑む小心な体のこわさにもなりながら——「幕命でござれば」
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
牛肉とさえ言えば何処どこでも同じ事だと思って内ロースをシチューにしたり、こわい肉をビフテキにしたりして毎度失敗しくじっていました。
食道楽:冬の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
和泉屋は、羅紗ラシャこわそうな中折帽を脱ぐと、軽く挨拶あいさつして、そのまま店頭みせさきへ腰かけ、気忙しそうに帯から莨入たばこいれを抜いて莨を吸い出した。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
食卓は約束通り座敷のえん近くに据えられてあった。模様の織り出された厚いのりこわ卓布テーブルクロースが美しくかつ清らかに電燈の光を射返いかえしていた。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
父が二階を下りて行ったのち、慎太郎は大きな眼を明いたまま、家中いえじゅうの物音にでも聞き入るように、じっと体をこわばらせていた。
お律と子等と (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
腰に下げた手拭てぬぐいをとって、海水帽の上からしか頬被ほおかむりをした。而して最早大分こわばって来たすね踏張ふんばって、急速に歩み出した。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
「うす気味のるい色をして、こわばった顔をしていました。そして私が近寄って行くと、急に、かくれてしまうのでした」
黄色な顔 (新字新仮名) / アーサー・コナン・ドイル(著)
たちまち彼のからだはこわばり、脚を左右にひろげ、ちょうど、銃砲店の広告絵みたいになる。——「生かさぬ一発、狂わぬ一発」
博物誌 (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
しかしたがいに相手を見てとることができなかった。彼女はまっすぐなこわばった姿勢で、振り向きもせずに通り過ぎた。
今海面を見詰めている兄のこわばった顔は、痛いほど僕の視線を感じているに違いないのだ。僕は意地悪く、しばらくじっとそこから視線を放さないでいた。
魚の餌 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
僧徒らものいらえんとするも、舌こわばりであたわざるがごとし。唖口のむなしく動けるは死に行く魚等のさまに似たり。
道成寺(一幕劇) (新字新仮名) / 郡虎彦(著)
猩々のきょろきょろした血ばしった眼つきが、このときふと寝台の頭の方へ落ちると、その向うに、恐怖のためにこわばった主人の顔がちょっと見えた。
ファンティーヌはこわばった腕と両手とでそこに飛び起きた。ジャン・ヴァルジャンを見、ジャヴェルを見、修道女を見、何か言いたそうに口を開いた。
先刻さっきから立て続けに恐ろしい話を聴かされて、蒼白い上品な顔をすっかりこわばらせて居る位ですから、人殺しに対する意見などがあるわけもありません。
悪魔の顔 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
「どうも、はっきりは分からぬけれど、筋肉のこわさから判断して、殺害は昨夜の十二時頃に行われたに違いない」
墓地の殺人 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
上と下で二人の視線がカッチリと出会った時、妙に表情のこわばるのを意識しながら、太田はいて笑顔を作った。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
職業婦人のだともっとこわばるか、ゾンザイに見えるかして、どちらかと云えば男性化した気分があらわれている。
東京人の堕落時代 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
ほのぼのとした生の感覚や、少年の日の夢想が、まだその部屋には残っているような心地ここちもした。だが彼は悶絶もんぜつするばかりに身をこわばらせて考えつづけた。
死のなかの風景 (新字新仮名) / 原民喜(著)
手早てばやささの葉をほどくと、こわいのがしやつちこばる、つつみの端をおさへて、草臥くたびれた両手をつき、かしこまつてじっと見て
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
はッ!——とお辞儀をしようとした大之進、なんだか懐中にこわばった物がはいっているから、フト思い出して
丹下左膳:03 日光の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
しかし葉子は明らかに倉地の心がそういう状態のもとには少しずつこわばって行き冷えて行くのを感ぜずにはいられなかった。それが葉子には何よりも不満だった。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
彼はこわばった笑いを浮べながら寝転んだ。彼女の赤い腰紐が彼の眼の先きにあった。彼は眼をつぶった。
青草 (新字新仮名) / 十一谷義三郎(著)
雨は終日しゅうじつやまなかった。こわ田舎いなかの豚肉も二人をあわく酔わせるには十分であった。二人は高等師範のことやら、旧友のことやら、戦争のことやらをあかず語った。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
私は顔の筋肉がこわばった様になって、無論挨拶あいさつなんか出来なかった。先方でも、空洞くうどうの様なまなざしで、あらぬほうを見つめていて、私の方など見向きもしなかった。
毒草 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
殊に犬のパトラッシュは、少年が年毎に次第に力を増して行くのに反し、ますます老いぼれて行くのみで、骨の節々がこわばって来てはげしく疼いて苦しいのでした。
橘の顔はこわばり、思わず低い驚きの声を発したほどだった。事、ここに至ってはどういいようもなく、ももがこまかくふるえて来て唖のように二人の若者を見守った。
姫たちばな (新字新仮名) / 室生犀星(著)
寒さと疲れとで顔の皮は板のようにこわばり、脚は棒のように堅くなり、かつしびれる。つねって痛ささえ感じないくらいになる。お腹は空いて眩暈めまいさえしそうになる。
口には出さなかったが、すねから腰にかけての、このこわばる疲労はどうすることも出来ないのである。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
峰「由兵衞さんは大変喜んで居りますよ、坂をお手を曳いて歩くのは大変仕合せだって云って居ますが、手がこわいと云って気を揉んで、種々いろ/\の物を付けて居りました」
霧陰伊香保湯煙 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
浪路は、片手を脇息きょうそくにかけて、紅唇にほほえみをうかべようとするのだったが、その微笑は口ばたにこわばりついて、かえって、神経的な痙攣けいれんをあらわすにすぎなかった。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
民族代表の重大な責任にいささか身体からだこわばらせていた、と告白したほうがいいかも知れない。
と、次郎はわざととぼけたような顔をして見せたが、その頬の肉は変にこわばっていた。
次郎物語:02 第二部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
すでにして又来たるを見れば、さきの皮一枚は、藤を以てつなぎ合せて背に負ひ、他の一枚は腰に巻き付けたり。されど生皮なまかわを其のまゝ着たる故、乾くにつれて縮みよりこわばりたり。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
彼は、泣き出しそうなこわばった微笑を、強いて作りながら、美奈子達の後から乗った。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
仁科少佐はいつもと違った総長のおごそかな態度に、身体をこわばらしながら答えました。
計略二重戦:少年密偵 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
しかし世捨てびとの今となって、なまめかしい恋文は手がこわ張って能うは書かれまい。はははははは。それも折角のお頼みじゃで、われらも一度は書いて進ぜる。但し二度は無用じゃ。
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
で、努めて、それら家族の一人一人に、自然な態度で立ち向おうとしている京野等志も、どうやら、自分の顔がこわばるのを意識して、あちこちへ眼をそらし、結局、ひとり言のように
光は影を (新字新仮名) / 岸田国士(著)
それを考えただけでも己は頸がこわばるくれえだ。多分、手前らも見たことがあるだろう、鎖でめ殺されて、鳥がその周りに集ってる奴らを。しおで流されてゆくのを船乗が指してるんだ。
鼻孔から、喉頭が、マラソン競走をしたあとのように、乾燥し、こわばりついている。彼は唾液つばきを出して、のどを湿そうとしたが、その唾液が出てきなかった。雪の上に倒れて休みたかった。
渦巻ける烏の群 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
両脇りょうわきに子供をひきつけ、依怙地いこじなほど身体をこわばらせている石のようなお安の後姿を、主水は歎息たんそくするような気持で見まもった。扶持ふちを離れたといっても、明日の生計たつきに困るわけではない。
鈴木主水 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
タアラントと外国人は彼等のいつもの冷淡な態度で面をこわばらしていた。牧師は弱ってるように思われた。師父ブラウンはたおれた人の傍にひざまずいて、その様子を吟味しようとしていた。
そして彼は、この間自分とお母さんのところへ分けてもらった肉は、こわくて古くて骨だらけだった。これからはもっとちゃんとした肉をもらいたいものだと、おそれげもなく文句をつけました。
負けない少年 (新字新仮名) / 吉田甲子太郎(著)
何処かむしばんだうずくろさはあってもまだまだ秀麗だった麻川氏が、今は額が細長く丸く禿げ上り、老婆のようにしわんだほおこわばらせた、奇貌きぼうを浮かして、それでも服装だけは昔のままの身だしなみで
鶴は病みき (新字新仮名) / 岡本かの子(著)