其儘そのまま)” の例文
的の真ただ中に箭鏃やじりのさきは触れた。女は何とすることも出来無かった。其儘そのままに死にでもするように、息を詰めるより外はなかった。
雪たたき (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
むらむらと湧いた肝癪かんしやくから私はまだ其儘そのまま其處に在つた蠅叩きを取るや否や、ぴしやりとその黒い蟲のかたまりに一撃を喰はした。
閉園へいえん近い時刻になっても園長は帰って来られません。見ると帽子と上衣は其儘そのままで、お自宅から届いたお弁当もそっくり其儘です。
爬虫館事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
自分がロダン先生のかつて製作された夫人の肖像に寸分ちがひのないかただと思つたのは、一つは髪の結様ゆひやう其儘そのままの形だつたからかも知れない。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
飛騨は名に負う山国であるから、山又山の奥深く逃げこもった以上は、容易に狩出かりだすこともできないので、余儀よぎなく其儘そのまま捨置すておいた。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
湯は高い岩壁の下から湧き出して、一部は家の中に導かれ、一部は其儘そのまま岩の浴槽に湛えられている。湯滝なども作ってある。
それから親身も及ばぬ介抱をしてれたまでは好かったが、其儘そのまま一歩も外に踏出させぬには、此上も無い迷惑なので有った。
死剣と生縄 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
それ等の文句を取って其儘そのまま詠んだというのでなく、巻向川(痛足あなし川)の、白くたぎ水泡みなわに観入して出来た表現なのである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
額へ、頬へ、肩へ触った手を、その恐ろしい冷たさにゾッとして引込めると、其儘そのまま寝室ベッドの側に寝巻パジャマの膝を突いて、讃之助は男泣きに泣き入りました。
葬送行進曲 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
だから幼時の記憶として其儘そのままを叙述していない「夷講えびすこうの夜の事であった」に至ってかえって失望しようとしたのです。
木下杢太郎『唐草表紙』序 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
二三年前には葉鶏頭が沢山出来たのを、余り憎くもない草だと思つて其儘そのままにして置くと、それ切り絶えてしまつた。
田楽豆腐 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
此には「演芸画報」に載った源之助晩年の芸談なる「青岳夜話」を其儘そのまま載せてある。これには又、彼の写真として意味のあるのを相当に択んで出している。
役者の一生 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
すると母は、『お前、昼眠をせんで起きているのか、頭に悪いから斯様こんな熱いのに外へは出られんから少し眠て起きれ。』といって、また其儘そのまま眠ってしまった。
感覚の回生 (新字新仮名) / 小川未明(著)
踏んでいた床が、崩れ落ちて、其儘そのまま底知れぬ深いふちへ、落ち込んで行くような、暗い頼りない心持がした。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
経験するというのは事実其儘そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。
善の研究 (新字新仮名) / 西田幾多郎(著)
銛はするど尖端せんたんと槍の如きとより成る物なるが魚の力つよき時は假令たとへ骨にさりたるも其儘そのままにて水中深く入る事も有るべく、又漁夫があやまつて此道具をながす事も有るべし。
コロボックル風俗考 (旧字旧仮名) / 坪井正五郎(著)
いかで/\我命をば助けよかしと涙おとしてびけれど(その言語今の世のことばならで、さだかには聴取りかねしとぞ)、いといぶかしくや思ひけん、其儘そのまま里へせ還りて
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
例へば、亜剌比亜アラビア人の形容を其儘そのまま翻訳して居るのに非常に面白いものがある。男女の抱擁はうようを「ボタンが釦のあなに嵌まるやうに一緒いつしよになつた」とじよしてある如き其の一つである。
然し人間と呼ばれる種族間に於ては、親から子に譲らるべき其儘そのままの同じものとては一ツもない。
虫干 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
「そりゃ私の手紙は言文一致はなしで、其儘そのまま誰が聞いても分る様に……」と皆まで言わぬ中に
恭三の父 (新字新仮名) / 加能作次郎(著)
久吉にそでを引かれた時に、お幸は郵便配達夫になることを此処ここで弟と相談して見ようと思つて居たことを思ひ出しましたが、其儘そのままなつかしい母の顔のある家の中に入つて行きました。
月夜 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
随分性急せつかちに申込んで来て、兎も角も信吾が帰つてからと返事して置いたのが、既に一月、うしたのか其儘そのままになつて、何の音沙汰もない、自然、家でも忘られた様な形勢かたちになつてゐた。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
河野氏に懇々こんこんさとされたぐらいでは折角せっかくの思い付を止めるはずがない。其夜彼等は脱獄し海上三里を泳ぎ渡り羽田からおかへ上がったが其儘そのまま何処へ行ったものかようとして知ることが出来なかった。
其儘そのままばけにも成り兼ねない眼をしてにらみ付け乍ら、独語ひとりごとの様に云った。
乗合自動車 (新字新仮名) / 川田功(著)
と一喝して、いきなり、その髪をつて、引摺倒ひきずりたふし、こぶしの痛くなるほど、滅茶苦茶になぐつた。そして半死半生になつた女房を尻目にかけて、其儘そのまま湯田中へと飛んで行つた。そして、酒……酒……酒。
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
男は男で、ひと斯様こんなことには取合いたがらぬものである。匡衡は一応はただ其儘そのままに聞流そうとした。しかし右衛門は巧みに物語った。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
所詮駄目だと解つてはゐるものの村ではどうしても其儘そのまま捨てておくわけにゆかぬ、村の青年會は此頃殆んどその用事のみに働いてゐる位ゐだ
熊野奈智山 (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
そして今にも泣き出しそうな顔をしている豊乃をうながして、特別麻雀室の入口に立たせ、室内はすべて其儘そのままにとどめさせた。
麻雀殺人事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
市郎は医師の手当てあてよって、幸いに蘇生したので、すぐふもとき去られていたが、安行とお杉と𤢖との三個みつの屍体は、まだ其儘そのままに枕をならべていた。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
そう面白い種をあさってあるく様な閑日月もなかったから、つい其儘そのままにして居るうちに子規は死んで仕舞しまった。
半沢良平は大怪我おおけがをしましたが、幸い生命には別条なく「不慮の災難」で公向きは済みましたが、昔気質むかしかたぎの小田切三也の気持はうも其儘そのままでは済みません。
百唇の譜 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
岩の上に積った落葉などは其儘そのまま濡れ腐ってはやなかばは土に化している。本年はまだ誰も通った人は無いらしい。
釜沢行 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
し総掛りに軍し給はゞ味方難渋仕り候はんか、今暫時しばらく敵の様を御覧ありて然るべきかと申しけるに、長政のたまふ様、横山の城の軍急なれば、其儘そのままに見合せがたし。
姉川合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
たとひ、此が継子の皇子の異図を諷したものと言ふ本文の見解を、其儘そのままにうけとつても、観照態度が確立して居なければ、此隠喩を含んだ叙景詩の姿の出来るはずはないと思ふ。
叙景詩の発生 (新字旧仮名) / 折口信夫(著)
併し概して言ふと、しもがかつた事も、原文が無邪気むじやきに堂々と言ひはなつてゐるのを其儘そのまま訳出してあるから、近代の小説中に現はれる Love scene よりも婬褻いんせつの感を与へない。
久吉が暗い台所から持ち出して来た盆からはゑたお幸に涙をこぼさせる程の力のある甘いにほひが立つて居ました。お幸は弟の好意を其儘そのまま受けて物も云はずその焼芋を食べてしまひました。
月夜 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
其儘そのまま消えて無くなって了っても好いと思った。
偽刑事 (新字新仮名) / 川田功(著)
余の話の声など立てて妨ぐればこそ、感涙を流して謹み聞けるものを打擲ちょうちゃくするは、と人々も苦りきって、座もしらけて其儘そのままになってしまった。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
彼奴あいつが不親切な奴で、金を貰いながら其儘そのままどこへか行ってしまったらうだろう。いや、真逆まさかにそんな事もあるまい。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
其儘そのままその窓を乘り越えて溪端の岩の上にでも立ちたいほどの身體のほてりである。然し、流石に雪解の風は冷たい。
湯槽の朝 (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
ここに出ている一頭のニシキヘビの元気が無いことから、食餌しょくじの注意などを云って下すって其儘そのまま出てゆかれたんです
爬虫館事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
人から佐久間艇長の遺書の濡れたのを其儘そのまま写真版にしたのを貰つて、床の上で其名文を読み返して見て「文芸とヒロイツク」と云ふ一篇が書きたくなつた。
文芸とヒロイツク (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
其儘そのままブラジルへ行ってしまったか、それともそっと太平洋にでも身を沈めたか、そんな事も考えられない事はありませんが、それよりも確実性のあるのは
珍らしいので其儘そのまま紙に包んで置いたが、翌日劒沢の岩屋に着いた時ふと気が付いて開けて見ると、干からびて生体も無かったので、残念ながら棄ててしまった。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
定基はこれを見て、いやに思った。が、それは半途で止める訳にはゆかぬから、自ら堪えて其儘そのままに済ませて終った。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
そこで今、伝馬町てんまちょうの薬屋で瘡毒そうどく一切いっさい妙薬みょうやくといふ赤膏薬あかこうやくを買つて来たのだが、そこで直ぐに貼つてしまへばいのに、極まりを悪がつて其儘そのままに持つてゐるのだ。
赤膏薬 (新字旧仮名) / 岡本綺堂(著)
しつかり者のこの老婆の言ふことをば何故だが其儘そのまま信用したかつた。そして若しもの事のあつた時の用意だけをしておいて山へ逃げるのを暫く見合はすことにした。
樹木とその葉:34 地震日記 (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
あまりの騒ぎに顛倒てんとうして、殺された主人の弟岩三郎の死骸も其儘そのまま、客の田屋甚左衛門と、浪人篠崎小平が帰っただけで、あとの人数は昨晩のままに残って居ります。
銭形平次捕物控:245 春宵 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
九時五分尾根の一角に達して、其儘そのまま石楠の多い山の背を登って行くと、栂、かんばなどの大木が出て来る。
黒部川を遡る (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
今入ったばかりの松ヶ谷学士がよろよろと入口へよろめき出て来ると、パタリと其儘そのままたおれた。惨劇さんげきの室の前に集った人の中から、マスクをかけた長身の男が飛び出して
国際殺人団の崩壊 (新字新仮名) / 海野十三(著)