平重衡たいらのしげひら)” の例文
およそ四百三十年の期間であった。治承四年の冬、平重衡たいらのしげひらの兵火によって伽藍がらんの大部分が焼失したことは周知のところであろう。仏頭もむろんちてしまった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
「南都の七堂伽藍がらんを焼き尽した平重衡たいらのしげひらの暴挙にも、大きい眼で見れば何んかの意味があるだろう。蠑螺堂の百観音の焼かれるのも、焼かれる因縁があってのことかも知れない」
大仏殿を焼いた平重衡たいらのしげひらは、囚われた後に「生身しょうじんの如来」と言わるる法然房に懺悔して言う、——平家が権力を持ったころには自分はただ「世の望み」にほだされて驕慢の心のみ深かった。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
天平てんぴょうの東大寺は平重衡たいらのしげひらの兵火にかかって、けなげにも焼けて行った。大仏も観音も弥勒みろくも劫火に身を投じた。これが仏の運命というものではなかろうか。何を惜しむ必要があろう。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
……推古朝といえば今から千三百年前、この像はその時から日本の歴史のあらゆるあらしを見て来ている。平重衡たいらのしげひらや松永久秀の南都炎上も法輪寺からならばのあたり望み見たわけである。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)