分倍河原ぶばいがわら)” の例文
その騎兵主義もはや威力はなく、弓隊を持たないので、みすみす敵をして、難なく分倍河原ぶばいがわらの陣地も彼の蹂躪じゅうりんにまかせてしまった。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
分倍河原ぶばいがわらはむかし軍配河原といって、何十何万の兵士が火花を散らして合戦をしたそのあとだ、陣街道の首塚と胴塚、それに三千人というのは
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
……治承じしょう四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原ぶばいがわらに関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘げんこう三年新田義貞卿が
剣侠 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そして分倍河原ぶばいがわら(現・府中競馬場の西)の小高い端に旗をおいて、なお、下流上流の将士までも呼び返した。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
貴様たち、それほど琵琶が弾きたいなら、河原へ行って、思う存分弾くとも呶鳴どなるともするがいいや。そこを出ると多摩川で、その近辺の河原が分倍河原ぶばいがわらといって、古戦場のあとだ。
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
祖先斎藤蔵人くらんどは、名もなきものにござりますが、義貞公お旗上げの折より、御一族の脇屋殿わきやどのの手について、鎌倉攻めに参加し、のち分倍河原ぶばいがわらのたたかいに、討死をとげました。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)