しょう)” の例文
種々な小禽ことりの声が、ひのきの密林にきぬいていた。二人の頭脳は冷たく澄み、明智あけちしょうを落ちて来てから初めてまことわれにかえっていた。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しょうちゃん(お絹たちの弟)がめていたから、いい人でしょうね。けど奥さんもずいぶん骨が折れますわ。幾歳だとか……」
挿話 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
茂庭家の屋敷のあるとがしょう村は、その裏道から「松山」を越してゆくのが近い。彼は松山への坂を登っていった。
月の松山 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
吉「大丈夫、さアしょう、あかはあとにして先ず二人で遣付やっつけようじゃねえか、成程こいつア中々うめえ」
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
「おい、おい、しょうどん! おめい何処どこを見てるんだな。ちっとシッカリしないかい!」
小僧の夢 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
現に誰も知っている一例を挙げれば、肥後ひごの山奥にある五個ごかしょうです。壇の浦でほろびた平家の残党はの山奥に身を隠して、其後そのご何百年の間、世間には知られずに別天地を作っていました。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
越前えちぜん福井ふくいは元きたしょうと云っていたが、越前宰相結城秀康ゆうきひでやすが封ぜられて福井と改めたもので、其の城址じょうしは市の中央になって、其処には松平まつだいら侯爵邸、県庁、裁判所、県会議事堂などが建っている。
首のない騎馬武者 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
鬼界ヶ島を立った丹波少将らの一行は、肥前国鹿瀬かせしょうに着いた。
讃岐さぬき小豆しょうずしょう町字アワラ島
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
さきには、きたしょうめて、一きょ柴田勝家しばたかついえ領地りょうち攻略こうりゃくし、加賀かがへ進出しては尾山おやましろに、前田利家まえだとしいえめいをむすんで味方みかたにつけた。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
けだシ典薬寮味原樹、掃部かもん寮大庭ガしょうナリ、摂津ノ国ニいたレバ神崎蟹島かにしま等ノ地アリ、此門連戸、人家絶ユルコトナク、倡女しょうじょ群ヲ成シテ扁舟へんしゅうさおサシ、舶ヲ看撿かんけんシテ以テ枕席ちんせきすすム、声ハ渓雲ヲ過ギ
蘆刈 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
しょうの一家が東京へ移住したとき、お庄はやっと十一か二であった。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
大和国神戸かんべしょう小柳生城こやぎゅうじょうあるじ、柳生美作守家厳みまさかのかみいえとし嫡男ちゃくなんとして生れ、産れ落ちた嬰児えいじの時から、体はあまり丈夫なほうでなかった。
剣の四君子:02 柳生石舟斎 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「わしは長年、竹山城の御城下宮本村から、しもしょうの辺りへは、ようあさの買い出しに行くが、近頃、さる所でふと、噂を聞いてな」
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「いやすでに、前代楠木正遠が、北河内の玉櫛たまくししょうの出屋敷にあって、あの辺りの散所を支配していた頃からのよしみでおざった」
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
能美のみ江沼えぬま檜屋ひや大聖寺だいしょうじの諸郡に、それぞれ守備をおき、まず将来への基点としておいて、自身はきたしょうへ陣を移した。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
急遽とはいえ、越中を離れるにも数日を要し、居城の越前きたしょうでも幾日かを費やした。——が彼としては、決してこれを遅いとはしていない。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一つゆきがけの駄賃だちんきたしょうのようすをさぐり、それを土産みやげ都入みやこいりして、うまうまと秀吉ひでよしのふところへ飛びこむつもりで考えていたところだ。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかも今は——さきに浅井長政の室であった信長の妹お市の方をその後妻にむかえて、越前きたしょうを居城とし、所領三十余万石という大身である。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
角鹿つるがの浦から十六、七里、足羽御厨あすわみくりやきたしょう(今の福井市ふくいし)の城下に、ふたりの偽伴天連にせバテレンがあらわれて、さかんに奇蹟きせきや説教をふりまわしていた。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
富田とんだしょうは、美濃尾張のあいだにある一向僧こうそう坊主領ぼうずりょうであった。戸数七百ほどの村落で、正徳寺しょうとくじという寺院がある。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
下野国しもつけのくに芳賀郡はがごおりの大内のしょうとよぶ土地だった、そこの柳島に、一粒の念仏の胚子たねがこぼれたのは、二、三年前だった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
十兵衛にも、故郷にのこしてある母があった。郷里、美濃国みののくに恵那郷えなごう明智あけちしょう明智城あけちじょうにひとりの老母が待っている。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
またこれから奥は草野くさのしょうといい、むかし平治の乱に源義朝みなもとのよしともの父子がかくれたのもそこだと云い伝えられております
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
来年は飛騨白川から裏日本の平家部落や、また有名な九州五箇ごかしょうだの椎葉しいばなどへも行ってみるつもりである。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「かねてより聞いておる者だが、河内の水分みくまりしょうに住む楠木正成とやらは、まだ参陣してまいらぬな」
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その頃、赤城あかぎ山の裾から遠くない阿蘇あそしょう田沼に、東山道とうさんどう駅路うまやじを扼して、たちとりでをかまえ、はるかに、坂東の野にあがる戦塵を、冷ややかに見ていた老土豪がある。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
わけて楠木家の祖は、玉櫛たまぐししょうに住んで、散所民との縁も浅からぬ家柄だったことでもある。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
可児郷かにごう明智城あけちじょうは、明智ノしょうの山間にあった。前時代の旧式な型をもった山城であった。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
きたしょうの落城の日、養父の柴田勝家しばたかついえや、実母のおいちかたが世を去る煙をうしろに見て、北越ほくえつの陣中からこの大坂へ移され、西を見ても東を見ても知らぬ者ばかりの中で、ひと頃は
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
が、きたしょうの城廓は、この冬、いつもの年よりは、何か、あたたかいものがあった。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
……ずっと以前には、明智ノしょうの城主で、斎藤道三山城にくみしていたものだが、義龍に亡ぼされて、諸州を流浪るろうし、先年、将軍義昭よしあきの密書をたずさえて、信長様を頼って参った者だが
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして九重くじゅうを経、五箇ごかしょう椎葉しいば方面などへ、分布して行ったにちがいない。あるいは、北九州へ逃げ上がった友軍や肉親のたれかれを探して、果てなくさまよい歩いたかもしれない。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ここは笠置山かさぎやまの中にあるが、笠置村とはいわない。神戸かんべしょう柳生谷やぎゅうだにといっている。
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「万兵衛。ご苦労じゃったのう。礼は後でしますぞよ。そこで——皆の衆よ。あやつが、悲鳴を揚げぬうち、猿ぐつわをませてしもしょうの屋敷まで、はようかついで行ってくだされ」
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
家士のうちには旧知の朋輩ほうばいがたくさんいる。で、浅間山を左方に見ながし、三国みくに山脈をこえ、信濃川の水戸口みとぐち(現・新潟附近)から、弥彦やひこしょうへ入って、佐渡への便船を待つことにした。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ところが、発表になってみると、佐用さよしょうしょを賜う、とあるだけだった。
勝家は、養子勝豊、勝政、その他の諸将をすでに先発させ、自身もきたしょうを出て、山越えに、近江おうみへ急いでいる頃であった。——もちろん上洛を遂げて、故主のあだ光秀と一戦を果さんために。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
名和なわしょうとやらは、この辺りからよほど遠くか」
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「ここか。富田とんだしょうとやらは、はやここの村かッ」
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
『じゃあ、江戸のしょうで降りて、後は歩くのだな』
篝火の女 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「ひとまずきたしょうへ」
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しもしょうの河原」
宮本武蔵:02 地の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いんしょう
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)