その頃は「藝術の無謬」が考えられていたと記してある。私は思わず本を取り上げていかに‘Infallible’「無謬」という字に見入ったであろう。
法律の無謬、官憲の原則、政治的および個人的安寧が立脚するあらゆる信条、国王の大権、正義、法典から発する理論、社会の絶対権、公の真理、すべてそれらのものは
理性の無謬さを、無際限の進歩——われいずこまでか登り得ざることあらん——を、地上へ幸福の到来を、全能なる学問を、人類神を、人類の長子たるフランスを、確信していた。
法王の無謬性、無産階級の支配、一般投票、人間の平等——あらゆる信条は、もしそれを生かしてる力を見ずしてその理論的価値ばかりを見るならば、等しく馬鹿げたものであった。
自ら次のことを認めざるを得ないとは何たることであろう! すなわち、無謬なるもの必ずしも無謬ではない。信条のうちにも誤謬があり得る。法典はすべてを説きつくすものではない。