朝粥あさがゆ)” の例文
三月十七日、甲斐は「朝粥あさがゆの会」を催し、六人を招待した。しかし、来たのは蜂谷はちや六左衛門だけで、他の五人は御用のためという理由で断わった。
朝粥あさがゆの会に招いたのだ」と甲斐は微笑した、「古内志摩と白石(片倉小十郎)、それに老女の鳥羽どの、里見十左、七十郎という顔ぶれだった」
これは十年ほどまえからの習慣で、「原田の朝粥あさがゆ」と、かなりひろく知られていた。もちろん粥を出すわけではない。
その当日は、久方ぶりで「朝粥あさがゆ」の会を催した。ずいぶん久しぶりで、客も十人ほど集まったが、以前のようなうちとけた、なごやかな気分はみられなかった。
そして甲斐は、非番の日に朝粥あさがゆをたべに来い、と云って、そこを去った。