すす)” の例文
そして隣りの物干しの隅にはすすで黒くなった数匹のセキセイが生き残っているのである。昼間は誰もそれに注意を払おうともしない。
交尾 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
などと言っているうちに、顔はすすだらけ、おそろしく汚い服装の中年のひとが、あたふたと店にはいって来て、これがその岡島さん。
酒の追憶 (新字新仮名) / 太宰治(著)
「よくもこう珍なものを集めたものだ」とつい人がおかしくなるほどすすぼけた珍品古什こじゅうの類をところ狭く散らかした六畳のへやの中を
尤もその切口もまったくすすけて同じ色の黒さで、切った年代の相違などというものもすでに時間の底に遠く失われているのであった。
石の思い (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
けれどもその安全燈ラムプの光りは、やがて又、赤いすすっぽい色に変るうちに、次第次第に真暗くなって消え失せてしまったかと思われた。
斜坑 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
一回だけ見たのでもそれはステートストリートと機関車のすすを洗いおとすに足りる。わたしはそれを「神のしずく」と名づけようと提議する。
床は勿論もちろん椅子いすでもテーブルでもほこりたまっていないことはなく、あの折角の印度更紗インドさらさの窓かけも最早や昔日せきじつおもかげとどめずすすけてしまい
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
これすなわち僕の若返りの工夫くふうである。要するに脳髄のうずいのうちに折々大掃除おおそうじを行って、すすごみあくたえだ等をみな払うことをしたい。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
桐油か菜種油を燃したすすを、膠の濃厚溶液でねって型に入れて、初めは灰の中で乾かし、後空中に放置して十分乾燥させたものである。
墨流しの物理的研究 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
だから、ことし十五になる小坊主の法信ほうしんが、天井から落ちてくるすすきもを冷やして、部屋の隅にちぢこまっているのも無理はなかった。
死体蝋燭 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
草木の多くは太陽に酔ひ、また碧空おをぞらに酔ふが、時季が時季のこととて、今は太陽の盞も水つぽつくなり、大空の藍碧もすすけきつてゐる。
水仙の幻想 (新字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
壁には油絵や、金縁の写真などが懸けられ、床には家具やピヤノが置いてあって、暖炉棚の下からは、燃えかすすすにおいがぷんと来た。
空家 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
呼吸いきを詰めて、うむとこらえて凍着こごえつくが、古家ふるいえすすにむせると、時々遣切やりきれなくなって、ひそめたくしゃめ、ハッと噴出ふきだしそうで不気味な真夜中。
霰ふる (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
すすけた破れた障子と、外側にめぐらした亜鉛トタンの垣との間はわずかに三尺ばかりしかなかった。女の苦しみ悶える声がみちの上に聞えた。
悪魔 (新字新仮名) / 小川未明(著)
おじさんは行き止まりに突きあたるまで調べ尽そうという意気込みで、すすけた紙に残っている薄墨の筆のあとをこん好くたどって行った。
半七捕物帳:01 お文の魂 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
蝙蝠の翅の黒色はすすのように古び、強く触ればもろく落ちるかと見え乍ら、涌子がそれを自分の居間の主柱おもばしらの上方に留め付けると
蝙蝠 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
さうして部屋を形造つた壁、障子、天井、畳は直ぐにすすびて来た。気の毒な百姓の一家は立籠つた煙などを苦にしては居られない。
あのひとね? あれから二度ばかり、家へきたことがあるわ……黒いってほどじゃないけど、すすっぽくて、白馬って感じじゃないわね。
我が家の楽園 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
戦いのあとで、日本軍の爆弾や砲弾を浴びた石油タンクが何日も燃えつづけ、煤煙ばいえんを吸ったスコールに打たれて、すすけてしまったのだ。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
壁も天井もすすけて、床板ねだも抜けた処さえあるらしいが、隅々まで綺麗きれいに片づいていて、障子や襖紙ふすまがみの破れも残らず張ってあるなど
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
石油コンロで煮炊きをするから、勝手もすすなどは溜まらないし、畳も古いのだが、ふしぎにけば立ったり擦り切れたりしていない。
季節のない街 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
むろん長くは目をとめていなかった。ついとらしていた。いつの間にか、やかたの屋根裏や壁板もすっかりすすけているのに気づいた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
二百余年来の江戸人の生活のちりすすがいっぺんに山と積まれて焼けているようなものである。行き詰まった文化が火葬されるのだ。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
弁信の坐っている後ろには、六枚屏風びょうぶすすけたのがあって、その左に角行燈かくあんどんがありますけれど、それには火が入っておりません。
大菩薩峠:27 鈴慕の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
白粉おしろいすす鍋墨なべずみ、懐中電灯、電池などと資材は集められた。骸骨おどりのすごさを増すために鬼火おにびを二つ出す計画が追加された。
骸骨館 (新字新仮名) / 海野十三(著)
省作は庭場の上がり口へ回ってみるとすすけて赤くなった障子へ火影が映って油紙を透かしたように赤濁りに明るい。障子の外から省作が
隣の嫁 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
皆寒そうであった。白い服の何ともいえないほどすすけてきたなくなった物の上に、堅気かたぎらしくの形をした物を後ろにくくりつけている。
源氏物語:06 末摘花 (新字新仮名) / 紫式部(著)
この室には一月前まで露国の鉄道援護の士官が起臥きがしていた。日本兵が始めて入った時、壁には黒くすすけたキリストの像がかけてあった。
一兵卒 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
台所の戸の開捨てた間から、秋の光がさしこんで、流許ながしもと手桶ておけ亜鉛盥ばけつひかって見える。青い煙はすすけた窓から壁の外へ漏れる。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
なるほど眺めていると、すすけたうちに、古血のような大きな模様がある。緑青ろくしょうげたあとかと怪しまれる所もかすかに残っている。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
上の網棚には、木綿の縞の風呂敷でくるんだ古ぼけた三味線と、すすけたバスケットが一つ、彼達の晒された生活を物語っていた。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
瓦斯なるために薪炭まきすみの置場を要せず、烟突えんとつを要せず、鍋釜の底のすすに汚れるうれいもなく、急を要する時もマッチ一本にて自在の火力をべし。
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
昔は大きな火鉢に炭火を温かにいていたのが、今はすすけた筒形の妙なストーブのようなものが一つ室の真中に突立っていた。
雑記(Ⅱ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
教授は不似合な山高帽子を丁寧ていねいに取って、すすけきったような鈍重な眼を強度の近眼鏡の後ろから覗かせながら、含羞はにかむように
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
学校といえば体裁ていさいがいいが、実は貧民窟ひんみんくつ棟割長屋むねわりながやの六畳間だった。すすけた薄暗い部屋には、破れたはらわたを出した薄汚ないたたみが敷かれていた。
その後葛飾でも初めはそうだったし、小田原へ移ってからも、二、三年はすすけランプの油煙くさい臭気をいつでも徹夜の暁には嗅がされた。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
漁夫はあてのない視線を白ペンキが黄色にすすけた天井にやったり、ほとんど海の中に入りッ切りになっている青黒い円窓にやったり……中には
蟹工船 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
詐欺者からは曖昧あいまいな色になされ、毒殺者からは緑青の色になされ、放火犯人からはすすの色になされ、殺害者からはまっかな色をもらっている。
其様な話を聞いたあとで、つく/″\眺めたうすぐらい六畳のすすけ障子にさして居る夕日の寂しい/\光を今も時々憶い出す。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
さうしてその四角な穴の中から、すすを溶したやうなどす黒い空気が、にはかに息苦しい煙になつて、濛々もうもうと車内へみなぎり出した。
蜜柑 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
足も立てられないような汚いたたみを二三枚歩いて、狭い急な階子段はしごだんを登り、通された座敷は六畳敷、すすけた天井てんじょう低く頭を圧し、畳も黒く壁も黒い。
非凡なる凡人 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
私の絵図はなってませんが、台所でも座敷でも天井が高く長押なげしは大きくいずれも時代のすすを帯びて十畳ぐらいの広さはありそうに思われました。
棚田裁判長の怪死 (新字新仮名) / 橘外男(著)
だがすすがひどくたくさん落ちてきたので、娘はその通風窓をすぐまた引っ張ってしめ、ハンカチでKの両手の煤をはらわなければならなかった。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
入れて置いた紙の箱はつぶれ、上包うわづつみすすけ破れて、見る影もありませんが、中の物は無事なので、天佑てんゆうとはこのこととばかりにうれしく思いました。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
と、すすけて木目さえ見えない、その古い衝立が仆れ、その背後うしろに若い男が、骨と皮ばかりに痩せ衰え、死の前の昏睡ねむりにはいっているのが見えた。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そのすすけた天照大神あまてらすおおみかみと書いた掛物かけものとこの前には小さなランプがついて二まい木綿もめん座布団ざぶとんがさびしくいてあった。
泉ある家 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
その夜もすすをながしたような暗さが、みて石のように固い空模様にまじって、庭は水底の冷えを行きわたらせていた。
野に臥す者 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
到頭千住せんじゅまで歩かせてしまった結果、子供はその晩から九度もの熱を出して、黒いすすのようなものを吐くようになった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
そして、児に用をたさしながら、見るともなしに正面のすすけた壁を見た。壁の上部に何かしら物があるような気がするので、その眼を上へ走らせた。
前妻の怪異 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
顔から手足まで、すすを塗って人相を変え、夜陰に乗じて城を抜け出し、南関へ行こうとして、忽ちにして捕えられた。
田原坂合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)